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小論文を「指導」から「対話」に変える

 書く指導と言えば「起承転結・序論本論結論」などの「段落構成」や、「言いたいことを明確する」が一般的でした。これを「論点の設定」「課題発見とその解決」などの流れにしました。
 「二項対立」も、思考を誤らせることがあります。そこで、「ジレンマ・トリレンマ」を意識する。ここで、「先入観」への気づきなどを導きます。
 これは、デカルトですね(笑)。
 そうなると、「添削」では指導できません。
 「対話」が必要です。それも、生徒さんが主役となる。

指導と言う発想を辞める

 添削の時代、添削と言えば、「誤字脱字の指摘」「原稿用紙の使い方の間違い」などの指摘が多かったです。
 また、結論に対して、「根拠がない」「理由が示されていない」という指摘もありました。論理が弱いとかもありました。
 要するに、「指摘」なんですね。
 ただ、時代が変わりました。指摘だけでは、「では、どうすればいいのですか?」ということになります。
(昔なら、「それは自分で考えろ」でよくて、そこで諦めない生徒さん、思考のスイッチが入る生徒さんが「生き残る」ということでしたが、今は、そういう時代ではないです。そして、今回の文章は、その時代の移行期のお話とご理解ください。)

よくない指導

 「たとえば、こうすれば」と具体的な提案を例示すること。
 すると、生徒さんは「言われたとおり」書いてきます。その時、生徒さんの思考は働いていないのです。完全に受身。先生の言うとおり書きましたよという感じ。
 ええと、本番はどうするの?? ですね。
 しかし、生徒さんを「受身×思考停止」にしたのは、大人・教員の対応が原因と考えました。
 いわゆる「指摘」をすると、「イップス」を発症する生徒さんが出てきたのです。「書けない」んですね。もう少し掘り下げていうと、生徒さんには「考え」があっても、それを誰かに知られることが「恐怖」になるんですね。それが、書くことへの恐怖となるようです。症状は大きく2つあって
 ①形が整った、無難な、どこから読んだようなものを書いてくる。
  要するに、模倣なんですね。
 ②書けなくなる。本当に書けなくなる。
  完全にイップスです

大人が変わることを選択する

 考えたのは3つ
 ①今風に言う「プロンプト」の言葉
 ②文章に対する指摘ではなく、「本人の成長を促す」という発想
 ③俯瞰的・抽象的な理解の重視

 そう考えると、生徒さんが書いてきた小論文の内容に対する指摘は、あまりなくなります。
 「よく書けている部分・すぐれた発想の芽」を見つけてほめること。
 「具体と抽象とを行き来するような考察」を導くこと。
 「裏付けとなる客観的な事実」を集めること。
 それくらいですね。

もう一つの変化

 小論文や志望理由書の指導は、一対一になります。
 問題は3つあります。
 ・女子生徒さんと一対一はよろしくない。
 ・私も年を取ってきて、存在するだけで威圧感が出るようになってきた
 ・対話を職員室でするのは難しい(うるさい)
 というわけで、同じ大学・同じ学部などを受験する生徒さんでもいいですし、指導希望の生徒さんに「友達と一緒に」でもいいのですが、要するに「グループ指導」にしました。同じテーマについて、みんなで考えるです。
 たとえば、Aさんが受験する大学の過去問について、みんなで考える。次はBさんが受験する~のループです。

 あとから聞くと、これを始めたころ、国語科の先生たちは「何をはじめたのか?」「スタンドプレーだ」「あんなの小論文の指導ではない」と思っていた(正確には、私のいないところで言い合っていた)そうです。
 しかし、翌年以降、少しずつ対話型になる先生が増えていきました。
 添削だけの限界…を感じたそうです。
 そして、他教科の先生たちを巻き込み、組織的に進めるようになったのは、以前書いたとおり。
 
 いわゆる、書かない小論文、教えない志望理由書の始まりの思い出です。
 

 

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