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疑問の解決

そもそも思い返してみれば、学校に行けなくてショックを負うのは、比較相対的に「できない自分」を見せつけられるからで、でも考えれば自分は常に本気を出してきたし、たまたま授業というもので点数を取れなかっただけで、私が生きていること"人生"に関しては、ちゃんと貯金していると思い直す。

さっき自分で言ってああなるほどな、と思ったことで、努力は比較相対的な目線が消え失せること、それ故に「自分には価値がない」と思わさられること、だと言った。努力をすればするほど、できない自分が知らされてくる。それ故に本人は自信を失う。しかしよくよく考えてみれば、それは誰もやろうとしないことを1人果敢に挑んだからこそで、それをまだ道半ばの人間が、勘違いをして批評をしたということだけであって、そもそもその本人が持つ実存的とまで言える努力を、周りは理解する目を持っていないという構造問題なのだと思う。

それにもしそれと似た努力を過去したことがある人間がいたとするならば、その人物は今努力に差し掛かる若者を鼓舞し、賞賛するだろう。それはなぜか、それは努力の行き着く先を知っているから。その努力が想像もしていなかった人生の素晴らしさや、精妙な境地に繋がるということを知っているから。つまり努力をし抜いた人は人に努力を強要しない。努力が中途半端な人間だけ努力を道徳として他の人間に振り撒く。そしてそれによって才ある若者がうつとなる。こういうわけだ。

スピリチュアルという分野の運をよくする、徳を積む、そういう教えがしっかりと響くのはとりわけ自己肯定感を持てた人間のみであると思う。現に機能不全にいる人間に対して、「行いをよくしましょう」「愚痴は言わない」などという教えを提示したところで、機能不全の人間は最も愚痴を言うことが必要なのである。機能不全で自分が生きてこれなかったのだから、当然その本人のために溜めた気持ちを吐き出すことが優先である。そこには憎悪もあれば色々な恨み、悲しみ、怒りがあるだろう。それを知らないで「行いをよくしましょう」とか「ポジティブな発言をしましょう」と言っても、それは機能不全をさらに機能不全にするだけで、事は悪化するだけであろう。故にここがスピリチュアルだけで人生の解決はできない、という社会問題に繋がるのだと思う。

かっこつける、ということをよく考える。よくよく考えると世の中のかっこつける、は何も知らないでかっこつけているのだと思う。もっと詳しく言うならば、かっこつけている男の子は他のかっこつけている男の子と親しくないのだと思う。でも本当の意味でかっこつけるというものは、男の子にも女の子にも響くからかっこいいというわけであって、本当の意味でかっこつけるとは"すべてがわかっているから"こそ起こり得るのだと思う。果たしてそんな奇跡的状態が人間に可能なのか、と思うが、日頃人間の情緒について考え、とりわけ自意識が過剰な人間、しかしながらその自意識が悪く働くことがない、そのような人間ならかっこつけることは可能であると思う。かっこつける、ということも実は奥行きがあるのだと思う。

私の尊敬するカウンセラーが、大人とは何を持って大人と言うか、ということを話されていて、それは「対応能力である」と言っていた。

そう考えれば、私が機能不全で困るのと、学校に行けなくて困るの、授業が受けれなくて単位が取れなくて困る、のその本質は「お前は対応能力がないのだ」と思わされるところから来ているのだと思われる。つまり何もできない人間だ、と。でも私は一つ発明していて、これは対処法的な方法なのだけど、人に媚を売る、これだけでも少し対応策である。なぜかというと世の中には父性が強い人間がいて、父性(ふせい)という言葉を話したけれど、そういう人物は「指示がしたくて仕方がない」人間である。実はこの人物は心の奥底に寂しさを抱えていることが大部分なのだが、その人に若干媚を売るのである。そしてそれはどこからできるかと言ったら、機能不全に生まれ落ちた顔色を伺う、という能力から来るのである。そして父性の強い人間には一つの特性がある。それは自分の言うことを聞いてくれる人間には優しい、ということである。だから少しこの人たちにいたずらをするならば、たとえば仕事上で指示をされたとする。その時に実際はちょっとその指示とは違ったことをする。だけど口では「すごいっす、先輩のおかげでうまくいきました!スムーズです!」と言ってみる、そうすると案外この人物は仕事がどうかこうかということは見ていないので、そこまでこちらは指示は聞いてもいないけれど、私に優しくしてくれるのである。これをまとめて一つの"対応能力"とする。

こうやって私は生き延びるのである。生き延びて生き延びて、自分の生活を掴み取る。それでもし自分が部下を持つようなことがあったとしたら、「その時はもう分からない」。なぜならこちらが用意したカリキュラムなどは部下の育成ではなく、洗脳だからである。部下は部下を持ったとき、そのときに考えることそのものが、つまり部下とのコミュニケーションそのものが、結果的に部下の育成につながる、というだけの構造のものである。

カリキュラムなどというものは、即興的な生きた教えにはちっとも敵わないのである。だからこそ私たちはもっと暇な時間を大切にしたい。

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