受験を青春にできないか
受験に苦しむ人の、その受験のすべてを、忘れられない青春に変えることはできないか。
いつ頃からか、私はそんなことばかりをずっと考えている。
受験を、あれは忘れられない、記憶に残る自らの成長の証だ、
そういうような甘い記憶にすることはできないか。
そうすれば、みんながより生き生きと、
躍進して、この世の中を創っていけるのではないだろうか。
その意味でまず私たちが最初に向き合わなければならないテーマは、
「なぜ働かなければならないのか」
「どうして勉強をするのか」
「そもそも生きるとはどういうことか」
この哲学的なテーマであり、
これが最も最初に答えを出すべき課題だ。
まずなぜ働かなければいけないのか、それは"精神の意味で生きるため"であると考察する。
精神の意味でと付け加えたのは、
単に食いつなぐためにお金を稼ぐだけでは、それではその人にとって本当に望ましい生活なのかということが疑問点だからだ。
もちろん現時点では生活のために生きるしかない、という人もあるだろう。
しかしその人も、あるいは他の人も、本当の意味で求めていることは、
"自分という存在が活き活きと活躍することによって、それが結果的に社会的な役割を担うことになり、親切心とも思っていない自身の親切心が、世のため人のためになっている状態"、これが真に求めている活き活きとした仕事なのではないか、と思わざるを得ない。
私の経験上、望ましい働き方とはこのようなものではないか、と予測がついてきたのだ。
簡単にできることではないかもしれないが。
次にどうして勉強をするのか、というテーマだが、これは一言で言うと働くため、であるようだ。
一体全体まずみんなは働くという未来に出る過程で勉強をする。
つまりは現に働いて、自身の生活を自身で担保することができているのであれば、現に勉強をすることの意味は満たしている、ということができるようだ。
これは少し無理ある論かもしれないが、あながち間違ってはいない。
みんなが勉強をするのは社会に出るためだ。
しかしもう社会で働いているのだとするならば、勉強の意味はすでに満たしたのであり、そこから何を付け足すというのか。
とここまでが、一つの考察だが、
勉強にはもう一つの意義があるように思われる。
それは、もうすでに社会で働くことができている人間が、さらにその生活を幸せなものにするべく、自らプラスアルファ要素で自身のスキルや知識を磨き、さらに可能性を広めていくというような、第二部的な努力やスキルアップのこと
これが勉強のもう一つの意義だと思うのだ。
つまりはまず一つの勉強の目的は、先述した通り社会に出るため。
そしてもう一つは、社会に出ることができた、そして幸せも獲得することができた。だけどそれでももっとこの幸せを広めたいから、私はさらに勉強します、という第二部的な主体性のある努力のこと、
つまりは最初は受動的な義務的要素の勉強であり、
後者は能動的な積極的要素のある勉強である。
そして私はできることならば、多くの人がこの第二部的要素の勉強をするべきなのではないか、否積極的勉強をするべきなどと義務形式で表現することはおかしいかもしれないが、しかしそれでもするべきと私が声を大にして言ってしまうほど、みんなに経験して欲しい勉強の姿勢である。
私もこれはまだ研究段階である。自らも常に工夫しながら、そういう勉強の仕方を試行錯誤している。
ここまでの概要をまとめると、まず世間一般で言われる勉強は「社会で働くため」であり、それはすでに社会で自身の生計を立てれている人ならば、その時点で現に勉強をしてきたことの意味は満たされているということ、
しかしさらにその先を望むというのなら、次は受動的ではなく主権を回復したその大人は、自ら可能性を広めるために勉強をすることを始め、それはもはや今まで"させられてきた"勉強とは違い、主権がこちら側にあるもので、より自身の幸せを拡大していくという実に望ましい積極的要素の込められた勉強の仕方である。
そしてその先に、より望ましい個人が活躍する世界として、本当の多様性を満たした生き方があるのなら、それは「自分という存在が活き活きと活躍することによって、それが結果的に社会的な役割を担うことになり、親切心とも思っていない自身の親切心が、世のため人のためになっている状態」このなんとも言えない活躍した社会が、私たちの働く意味であり、勉強の辿り着くべき未来なのではないか、と感じさせられるという私の主張である。
しかしこれができるようになるためには、受動的→能動的に切り替わるポイントが人生で必要であり、まさにこれがうつが治る過程で起こることなのだと言うことができる。
つまりはうつを通らなければ、この"主体性の回復"というものも行われないし、うつを乗り越えなければ"真の社会共生"も実現されることはないということだ。
それゆえにうつは最も価値のある事柄であり、
それを乗り越えることができるのならば、私はなんとも言えない、この人生への贈り物だと言わざるを得ない。
精神の意味で生きるため、
私たちは様々な工夫を凝らしていると思われる。
単に食い、寝て、義務をこなして、日々を送る。
これも立派な姿勢である。
やらなきゃ生きていけないから。
しかし私たちは、それらの単調な義務的である生の実感のない生活を、いつかの時点で打破したいと思う。
おそらくうつで苦しんでいる方々はまさにここの段階に相当すると思う。
私はその一見した社会不適合は、本当の意味で社会に適合するための、真の意味のある模索の期間だと思えてならない。
私はそれを乗り越えた先に、本当の意味で人々が生き生きした、"働いている‼︎"という世界を、これからも見続けていきたいし、そういう世界に出ようと思っている人たちを、陰ながらいつまでも応援したいと思う。
社会が常に美しいんだということを、みんなが自身の中に発見することを願って。
ここまでは、受験を青春にするためには、全人類に(全人類になどというと全く持って宗祖臭いのだが)、働く意味と生きる意味と勉強をする意味をしっかりと発見する機会を与えなくては、本当のところでその"するべき"勉強に、ペンを持つ手に、力が入らないだろうということを述べてきたわけだが、
私はここでまだ問題にしていない、議論していない点がある。
それは死後についてである。
生が菲薄化していれば、必然的にその死もその人にとって苦痛なものになるだろう、なぜなら、真に生きたという実感がないのだから、死にたくても死にきれない、という心理に陥るから。
しかし現に生を謳歌している人ならば、たとえ死が来た時にでも、自身のその生にお礼を言って、死後の世界に旅立って行けると言えるのだろうか。
このように死後は生と密接に結びついており、働く意味、生きる意味、勉強をする意味を理解するにあたってまず我々が真っ先に取り組まなければいけないのは、
理解することができない死後を、一番初めに理解しなければいけないという、この無理難題なテーマであり、
これがおそらく哲学の根本である。
私は哲学者でも思想家でも現時点ではないので、
どうにも答えも出せないのだが、
しかし生が輝いている、ということが一つの答えであるとは思うのだが、
ここからは私の完全な願望になるのだが、もはや理論もクソもない、ただの希望的観測なのだが、
私は死後に持って行けるとするならば、「優しさ」しかないのではないか、という希望を持つ。
いくら豪奢な豪邸を構えても、いくら莫大な資産をトレードで動かしても、死していくときには何も持っていくことはできない。
見栄、欲望、欺瞞、
それらは生の上では一時の凌ぎにはなるかもしれないが、
死がやってきてしまっては、何も残るものではない。
なぜならそれは外にあるものであるからである。
だから私は、もし死後に持って行けるのだとしたら、私たちの外部にあるものではなく、内部にあるもの、つまりは"精神的なもの"になるのは必然であり、その最たるものが"優しさ"という遺産なのではないかと思わずにはいられないのだ。
あるいは"笑い"とでも言えるかもしれないか。
私たちはともすれば目に見えるお金や、美貌、才能、権威、地位、そういうものを追い求め、自身の糧にしているように見受けられる。
しかしそれは糧になっているように見える、というだけで、本当の意味で精神が成長していなければ、それは言い換えれば、努力することによって初めて感じる感慨というものが精神的遺産として大きくなって、この人生や自然に対して感慨を感じるとともに、それらを育んでくれた私に対しての偉大な人生の流れに、感謝をせずにはいられない、というような精神的な成熟であり、これが起きていないのであれば、その人は真の意味で生きているとは言えないのではないか、それはその人を100%非難しているというわけではなく、そういう人は"死ぬにはまだ早い"ということを言っているのであり、もっと生きていいということを言っているのである。
この言説に対しては私はなんの理論も客観的正当性も示せるものではないかもしれないが、
一この不条理な世界に生きる若者として、こういう希望的観測をせずには生きてられないのであり、
先ほどは世界は美しいと言ったが、それは不条理があってこそ、それを乗り越えた先に世界の美しさが見えてくるということであって、
まず先にあるのはこのいかれた不条理の世界であって、そこに生きる一個人の若者としては、何としてでも死後に持っていけるとしたら"優しさ"しかないのではないか、という希望的観測を言わずにはおれなかったのである。
そして私は必ずやその確証を、自身の中に勝ち取りたいと思う。
私1人でその研究を進めていこうと思う。
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