赤と穢れ(エッセイ)
体が『女性』として生まれたら、いつか訪れてくるモノが『生理』だ。
必ずそうという訳ではないが、月に1度、体から血が流れてくる。この生理という体の現象は、昔では『穢』とされていたのだ。
……何でなのさ。
今でこそ、生理の事に関して周りに話しやすい環境にはなってきた。
けれど、世界を見ると、少し隔絶された地域では生理になった女性達を未だに隔離している場所もある。
その隔離されている小屋の衛生環境は余り良くなく、問題視もされている。
こういうのを知ると、私は思う。
何でなの?と。
当たり前の事だが、女性という体が準備をし、それがある時を満たした時に排出され、また準備をするというのを繰り返しているだけだ。
なのに、何故『穢』として昔は捉えられていたのだろう……と。
廣嶋玲子さんの作品『火鍛冶(ほかじ)の娘』という作品にも『初潮』の場面が書かれている。
古代日本。
主人公の沙耶は、火鍛冶の匠の父の様な火鍛冶になるのが夢だった。
けれど、一族に女は鉄を鍛えてはいけないという掟があった為、沙耶は自分を男と偽って鍛冶を続けていた。
ある時、父を亡くした沙耶の元に、成人する王子の為に剣を鍛えてほしいという依頼が来ることになる。
そこから物語は進んでいくのだが、ついに沙耶に初潮がやってくる。
男だと思っていた周りは騒ぎ始めるのだが、それを庇ってくれたのは、女性達だった。
沙耶自身、初潮を迎えた事にショックを受けるものの、同じ様に生理を迎えた女性達が生理が終わるまで暮らす月小屋で沙耶は生理の事を知るのだが、そこでの女性達の言葉が優しい。
続きを是非読んでほしい。なんて個人的には思うが、色々な理由の中には『怖さ』があるのかもしれないな。と、私はこの本を読んで思った。
…でも、やっぱり納得は出来ないけれど
穢じゃないよっ!と、穢とされていた時代に行って、宣言してしまいたくはなるけれど(笑)
それでも『穢』と言われてしまっていた生理が、やっと少しフランクに話せる世の中になってくれている事が、私は嬉しい。
話せるようになったからこその、違う『辛さ』が顔をのぞかせてきてはいるが、私は、こうなっていってくれた今が、少し嬉しい。