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北京滞在記⑤〜黒龍江省の少女〜

縁が縁を呼ぶというのは本当だ。そして、行動すれば道が開くというのもまた然りだ。

以前のエッセイで書いたように、私は北京に行って間もない頃、色んな中国語教室を見学に行っていた。韓国人の親友・メイシャンと出会った中国語教室に見学に行った事がきっかで、私はある黒龍江省出身の少女と知り合う事になる。

その黒龍江省の少女・劉さんは、地元の黒龍江省の中学を卒業後、北京に出て来て、私が見学に行った中国語教室が入るビルで働いていた。そして、私が見学に行った数日後、教室スタッフから一本の電話がかかって来た。

電話の内容は、ある中国人の少女が日本語を習いたがっているのだが、日本語を教えてあげてもらえないだろうか?というものだった。そのスタッフは、以前から劉さんが日本語を勉強したがっていたのを知っていて、私とメイシャンが談笑している様子を見て、私の中国語スキルを買って白羽の矢を立ててくれたそうだ。

私は、中国でやりたい事の一つが中国の人に日本語を教える活動だった。元々幼い頃の夢が教師になる事だったので、ボランティアでもいいから日本語を教えたいと思っていた。そんな私の所に、思いがけず願ってもない依頼が舞い込んだのだった。
 即答で快諾した私に、スタッフの女性は恐る恐る聞いた。
「那么…一个小時多少銭?(ナーモ…イーガ シャオシー ドゥォシャオチェン?)」(では…一時間お幾らですか?)
そもそも、駐在員の妻として現地でのアルバイトは会社から禁止されていた。そして、私自身が若い頃、家庭の経済状況により四年制大学進学を諦めた経緯からも、学びたいと思っている若者にはどんどん知識を得て欲しかったし、そのために貢献したいと思っていた。もっとも、中国で語学を学ぶ学生達の間では、お互いの言語を学びたい同士が、お互いにお互いの言語を教え合うやり方、タダで学び合える「互相学習(フーシャン シュエシー)」という方法はよく行われていた。
だから、私は迷わず答えた。
「我不要銭、免費的(ウォー プーヤオチェン、ミェンフェィダ)」(お金は要りません、タダです)
タダと聞いて驚くスタッフに私は言った。
「就是互相学習吧!(チゥシーフーシャンシュエシーバ!)」(だって相互学習でしょ!)

初レッスンの日、劉さんは自転車ではるばるアジア村までやって来た。初めて対面した時の印象は、つやつやのほっぺたが可愛らしく、まだまだあどけなさが残る小柄で素直そうな少女だった。こんなあどけない少女が親元を離れて、はるばる北京まで働きに来ているのか…と、単純に彼女に対して尊敬の念を覚えた。ぜひ彼女の力になりたいと、心からそう思った。

劉さんを部屋に招き入れ、お互い自己紹介をしたり、他愛もない話の後、
「那么、我們開始学習吧(ナーモ、ウォーメンカイシィシュエシィバ)」(では始めましょう)
と、ダイニングテーブルに向かい合って座った。劉さんは、黒龍江省から持って来たという日本語のテキストを鞄から取り出した。何度も何度もその本を見たんだろうな…と分かるほど、そのテキストは擦り切れていた。

彼女は本当に熱心に、一つ一つの日本語を噛みしめるように学んでいった。教える私の方も、説明する時に中国語を使うので、私自身の中国語の勉強にもなっていた。基本的に、劉さんの教科書を元に勉強していったが、いつか日本に行ってみたいと話す彼女のために、日本の日常生活や学校の事、若者のファッションや文化などについて色々話をした。彼女は憧れの国の様々な情報に目をキラキラさせて聞き入っていた。特に、自動販売機の話をした時は驚いて、
「那么発達的!(ナーモ ファーダー ダ!)很厲害(ヘン リーハイ!)」(そんなに発展してるの!すごい!)
と、感嘆の声を上げていた。
当時(25年前)の北京には、まだ外国資本のコンビニのような店は無く、(日本の百貨店のそごうや、スーパーのイトウヨーカドーはあったが、コンビニはまだ無かった。当然、自動販売機などあるはずもなかった。自動販売機の話で、あんなに驚いている劉さんを見て、いつか日本で実物の自動販売機が見られたら良いな…と願わずにはいられなかった。

劉さんは、最高気温がマイナスという北京の厳しい真冬の日も、自転車でやって来た。タクシーに乗って来るなんて、贅沢な事なのだろう。そんなに寒い中でも自転車でやって来る彼女を見ていると、本当に彼女にとって(もしかしたら多くの中国で教育を当たり前に受けられない人々にとって)知識とは宝物なのだと改めて教えてもらった気がした。黒龍江省という恐らくあまり裕福ではない環境で育ったであろう彼女にとって、知識を得ると言う事は、自分が羽ばたくためには本当に必要な事なのだろう。学べると言う事がほぼ当たり前の日本社会よりも、中国の若者には何かもっと学ぶ事への貪欲さを感じずにはいられなかった。

 秋に劉さんと出会い、レッスンを重ねること数ヶ月…冬が過ぎ、春が過ぎ、夏がやって来た。そして、劉さんは、秋からはレッスンに来られなくなる事を私に告げた。なんと、黒龍江省に帰り、高校に行く事になったそうだ。それを聞いて、劉さんとのレッスンが終わってしまう残念さももちろんあったが、それよりも、ちゃんとした学校で学べる事になって、彼女の未来が拓けた気がして本当に嬉しい気持ちになった。

「ここまで、タダで日本語を教えてもらって、何とお礼を言って良いか…」
と、申し訳なさそうに言う彼女に私は言った。
「哪里!就是互相学習吧!(ナーリィ!チゥシィフーシャンシュエシィバ)」(とんでもない!相互学習でしょ!)

その後、彼女が黒龍江省に帰るまでの一ヶ月ほどの間に数回レッスンをした。最後のレッスンの後、ささやかながらアジア村にある日本食レストランで二人でお別れ会兼激励会をした。半分日本語、半分中国語で談笑しながら…。

 食事の後、何度もお礼を言いつつ自転車で帰路につく小さな背中を、アジア村の出口で姿が見えなくなるまで見送った。見送りつつ、卒業式に教え子を見送る先生達ってこんな気分なのかな…と、幼い頃の夢だった教師の気持ちも少し味わう事が出来て、彼女の背中に向かって「がんばって」という気持ちと共に「ありがとう」という気持ちも抱いていた。

人生を送る上で、持っている武器やアイテムは多い方が良い。私と一緒に勉強した日本語が彼女の人生を豊かなものにするための武器になってくれていたら、本当に嬉しい。そして、日本に行ってみたいという夢が叶っていてくれたら良いな、と思う。

私は、親になって、ずっと思っている事は、「親が残せる最大の物は知識(教育)」という事だ。息子が高校卒業時にくれた手紙には、
「今までに得た知識は僕の宝物です」
と書かれていて嬉しかった事を、正に今思い出しながらこのエッセイを書いている。

思えば、今頃は劉さんも親になっているくらいの年齢だ。当たり前のように、子供に知識(教育)を与えられる環境にいる事を切に願うばかりである。知識を得る事の大切さを知っている彼女なら、きっとそうしているだろうと信じている。