【長編】とてつもない質量で恋が落ちてきた・第10話 心をざわめかせる人 ④
紅茶を飲みながらプリンを食べたら、あっという間に家をでなくてはならない時間になってしまう。あわててふたりで部屋を出る。
鍵をかけて振り返ると、大介さんが、手のひらを私に向かって差し出す。握りしめると、大きな手でぎゅっと握り返してくれた。なんだか照れてしまい目を伏せる。
「すいません。休めたらよかったんですけど。午後から新宿に行って、イベントの打ち合わせをしなくちゃいけないから。会社で資料を整理して、持っていかないといけないし」
「気にしないで。俺もジムいったり、トレーニングしたり。やらなきゃいけないことたくさんあるからね」
そっと見上げた横顔はもう、今日なにをすべきか冷静に考えている男の人の顔。私のほうはまだ昨日の夜をひきずっていて、彼と離れがたくて仕方ないのに。なんだか悔しくなってぎゅっと手を握りしめると、なに? って顔をして笑う。悔しいけれどやっぱり好きだと思ってしまう。
エントランスをでて、ふたりで歩く駅までの道のり。柔らかな色合いの青い空が広がる。すこしだけひんやりした空気が気持ちいい。つないでいる手の暖かさを、はっきり感じられることができるから。
東京には空がない。昔教科書で、そんな詩を読んだことを思いだす。あれは智恵子抄。でも私の上に広がるのは、きらきらした春の空気に洗われた青い空。大きく息を吸い込む。
「ねえ、理名」
大介さんが、私の物思いにそっとしおりを挟むように、声をかけてきた。見上げると、ちょっと眉をさげて、優しく見つめる人と目があう。
「これから海外ツアーがはじまるから、一緒にいれる時間がなかなかとれないな。合間に地方でのイベントとかもあるし。ごめんね?」
「あ、怒濤の海外ツアー……始まっちゃいますね」
トッププロゲーマーの大介さんはいつも忙しいけれど、春から夏にかけては繁忙期。アメリカやヨーロッパで大きな大会があるし、夏にはアジアの大会を転戦する。しかもその合間に地方でのイベントや、インターネットテレビでの仕事と講演会の仕事が重なってくる。
サイノス絡みのイベントを組んでいるから、所属ゲーマーである大介さんの多忙スケジュールは把握している。去年は、どのタイミングでイベントをいれようか、と頭を悩ませていたけれど、大介さんとつき合い始めた今は、恨めしい以外の何物でもない。はあ、とため息がこぼれ落ちてしまう。
「寂しい?」
ちょっと困ったように、でもからかうようにそういう人は意地悪で優しい。彼の瞳を見ていたら。少しは気の利いたことを言わなきゃって思ったのに、ぼろりと本音がこぼれてしまう。
「寂しい」
大介さんは照れたよう口元を緩めて私をみる。
「直球きた」
笑いを含んだ声でそう呟くと、そっと私の頭を撫でた。大介さんの手のひらは暖かい。猫のように目を細めて、その感触を味わう。大人のふりして、大丈夫っていえばよかったのかもしれないけど、言えない。やっぱり寂しいから。
どんどん我が儘になって、子供みたいに彼をほしがってしまう。ハッとしてすぐに大介さんを見上げた。
「ごめんなさい。ワガママを言って」
慌ててそういうと、小さく微笑んで首を振る。
「理名はそれでいいんだよ。思ったことを言ってもらえないと俺、わからないから。大事な人の気持ちが、知らないうちに離れてしまったらやりきれないから、ね」
甘い言葉なはずなのに。まるで自分に言い聞かせるようだった。何かを思い出すような表情に、胸がとくりと音をたてて軋む。
大事なことを見落としているような心許なさ。それがガラスの欠片のように、私の胸をチクリとさす。思わず握っていた手をギュッと握った。
「あ、遅れちゃうね。いこか」
それが合図だと思ったのか、私の手をひいて歩きだした。その横顔はもう、いつもの大介さんだった。人を好きになるのはなんて厄介なのだろう。好きな人の過去も今も未来もすべて。なにもかも占領したくなってしまう。そんなことできやしないのに。永遠のジレンマ。
大介さんとの時間は、カカオをたっぷり使った純度の高いチョコレートの味に、似ている。ビタースウィート。苦さがあるからこそ、ほのかな甘さが際立ち、また無性に食べたくなってしまう。想いの純度が高ければ高いほど、恋も苦くなるのかもしれない。体の内側にある熱を吐き出すように、私はそっと吐息をついた。
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