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【連載小説】『晴子』31

 あの無言電話の次に、今回の失恋のことを話したのは、もちろん菖蒲ちゃんだった。この菖蒲ちゃんへの報告は、もちろんという言葉の表現する必然性とぴったり符合するものを感じていたからだ。
「別れちゃったんですか?私、会ってみたかったのに、月島さんの彼氏。」
 少し残念がりながら、菖蒲ちゃんは更衣室の制服に袖を通していった。今日から夏服になる。
「あ、彼氏じゃなくて、元彼氏、でしたね。」
 制服から顔を出した彼女が、さっきの言葉を訂正した。
「いいのよ、呼び名なんて。もうなんでも。」
 更衣室に唯一の姿見で、髪型と襟元を正す。
「でも、お似合いだと思ってたんだけどな。月島さんと彼氏さん。」
 こんなに露骨に残念がる菖蒲ちゃんを見ていると、私より彼女の方がこの別れを悲しみ惜しんでいるように見える。まして、恋人を別れる時に、あれだけ大号泣した女の子なわけだから、彼女の方が悲しみ上手なように見えるのは仕方ないのかもしれない。
 でも、これは悲しみ方の違いなのだ。悲しみ方の違いとは、悲しみの耐え忍び方の違いのことだ。菖蒲ちゃんには菖蒲ちゃんの悲しみ方があり、耐え忍び方がある。私は単に彼女のように泣き崩れるという方法に代わる何かを以って、この悲しみに耐え忍ぶのだけなのだ。
 その代わりは、私の意のままにできるものではなく、気まぐれにやって来ては、話の途中でも小銭が切れたら去っていく。そんなやつだけど。
 身支度をあらかた終えた菖蒲ちゃんは、姿見の前の私の後ろの並んで、順番を待っていた。私は彼女に場を譲った。
「でも、あれですね。月島さんが髪を切ったのは、結果的に予告失恋になったわけですね。」
 鏡で髪型を整えながら、唐突に菖蒲ちゃんは言った。
「予告失恋?」
「そうです。乙女が急に髪を短くするのは、やっぱり理由があるんですよ。月島さんの心は無意識の内に、別れを感じ取っていたわけです。だから、今回の失恋を予告するような行動を無意識にとっていたわけです。」
 彼女の自信満々の言いっぷりが少し可笑しくて、それにちょっと可愛くて私は笑った。
「あのね、菖蒲ちゃん。私ももう28よ。乙女って歳でもないでしょう?」
 菖蒲ちゃんは姿見から私の方に向き直って言った。
「いいえ。女の子はいつになっても乙女です。いや、そうじゃないとダメですよ。男の子がいつまでも少年でいられるように、女の子がいつまでも乙女でいられないなんて不公平です。」
 菖蒲ちゃんの主張がどこまで本気なのかは分からないが、本人の中ではその理屈は筋が通っているらしく、うんうんと頷いてもう一度姿見に向き直る。
 あの夜、泣いて腰が抜けそうになっていた彼女を励ましていた私が、今や逆転して彼女に励まされている。今、彼女はすっかりたくましく見える。3か月前と比べると、すっかり見違えるようだ。
「そうだ!」
 更衣室を出てすぐ、思い出したように菖蒲ちゃんが言った。
「婚活しましょ!月島さん。」
「婚活?」
 突然の提案に、彼女の言葉をオウム返しした後は言葉が続かなかった。
「そうです。もうここは思い切って踏み出しましょう。お互い奇しくも同時期にフリーになっちゃったわけです。これも何かの運命ですよ。」
「運命って…。」
 大げさな菖蒲ちゃんの言葉に私はまだたじろいでいた。
「いいですか?婚活は個人戦に見えて団体戦なんですよ。婚活パーティーなんて初対面の人がたくさんいるところに、単身で乗り込むのは誰だって気が引けますって。だから、顔見知りと一緒に参加する方がいいんですよ。」
 菖蒲ちゃんは私の反応をよそに続ける。
「大丈夫です。お互いにサポートし合えば、すぐにいい人見つかりますよ。ね、やってみません?私たちお互い同じ時期にフラれちゃったんですって、切込みのネタとしては丁度いいじゃないですか。」
 菖蒲ちゃんの熱量を見る限り、どうやら本気のようだった。彼女の提案も悪い気はしないが、すぐに決断を下すのは躊躇われた。
「ううん。気持ちは嬉しいけど。まだ時間が欲しいのよ。でも、ちょっと前向きに検討するわ。」
 菖蒲ちゃんは私の返答に納得した様子で、「そうですよね。まだ傷心中ですもんね。」とあっさり受け入れた。
 私と菖蒲ちゃんの今日のシフトは学生バイトが来る19時までだった。ランチタイムはいつもより混んでいて、仕事に没頭していた。
 昼の混雑のピークを越えて余裕が出てくると、仕事をこなしながら今後の自分について色々考えを巡らせた。つまり、麻美とあの人を失った後の私のことを。
 麻美を失った私は、これからずっと絶え間なく晴子として生きていくことになる。耐えられるだろうか。あの人の前で麻美として振る舞っていられるというのは、私にとって必要な間隙だった。でも、その間隙はただの間隙ではなく、名前と私の関係を体感するためのレッスンという目的のあるものだった。
 このレッスンのおかげで、私が晴子という名前とどのような関係を目指せばいいのか、その方向が明確になったと思う。名前が私にピッタリと似合う。そんな感覚がどんなものなのか、それがどんなに満ち足りて、揺るぎないものなのか。晴子という名前と、どうやってそんな感覚にたどり着けるのか。どこへ行けばいいかは分かったけど、どうやって行けばいいのかが分からないままだ。
 でも、今や私にとって名前はもはや祈りでも意味でもないのかもしれない。あの人が私に刻んだのは、記憶だったのだ。麻美という名前は、出会った当初の記憶が刻まれているだけではない。
 その名前は未来に進行方向を定め、時間を経てきたものでもある。ということは、名前はあの人と出会った瞬間の記憶を定点的に凝結したものでない。麻美という名前は、あの人と過ごした時間を記憶として蓄積しているはずだ。蓄積された記憶の重さで名前は重厚に、そして濃密になる。
 だとすれば、祈りや意味から解放された名前は、何になることができるか。今の私には答えが見えている気がしてきた。思ったよりも、私は道を見失ってはいないかもしれない。
 仕事が終わって、更衣室で菖蒲ちゃんと一緒になった。お互いに「お疲れ様です。」とあいさつを交わし、私が先に出ようとした。私はドアノブに手をかけてすぐに手を離し、菖蒲ちゃんの方を振り返った。
「菖蒲ちゃん。」
「はい。」
 菖蒲ちゃんはシャツを脱ぐ手を止めた。
「婚活の話。やっぱり私、やってみようかしら。」

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