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【連載小説】『晴子』25

 3月。暖房が少し暑く感じ始めた。外に出るとまだ寒いが、それでも日なたに出ればマフラーが暑く感じる。
 ずっと長かった髪を切った。うなじが見えるくらいまで切ったのは初めてかもしれない。記憶をたどると、というか、髪型に少なからず意識を向けるようになった年齢から考えると、中学生からずっと髪が長かった。そのまま大学を卒業して今の職場で働くまで大きく髪型を変えることはなかったように思う。
 別に、髪型に気を遣っていなかったわけではない。それなりに身だしなみや服装には気を遣うのだ。それでも、これまで髪型を大きく変えてこなかった理由は、実は私も分からないのだ。
 髪型を変えてこなかったのは、自分の中にある不変のものを作って、そこに安心を見出したかったのかもしれないと考えてみた。でも、髪型にすがって対抗しなければいけないような不安がこれまであっただろうか。というより、この世にそんな不安があるだろうか。
 そもそも、中学生からほとんど変わらなかった髪型によく飽きなかったものだと思う。髪型でも何でも、人は変わらないものには飽きを感じることが大半なのに。
 結局、考えてみてもこれといった理由は思いつかなかった。これまでとは違う髪型をすれば、自分がこれまでその髪型をしてきた理由も浮かび上がるかもしれない。少なくとも、私はこれまで飽きを感じるほど髪型にこだわってこなかったのだろう。変えたくないなら、こだわってはいけないのだ。
 髪を切った私への反応は以下の通りだ。
 まず、職場の店長。店長の反応はとても標準的なものだった。
「ええ?月島さん?ああ、本当だ。月島さんだ。びっくりした。髪型全然違うから、知らない人かと思ったよ。ずっと髪長かったよね?どうしたのさ。急に。」
 店長はキッチンでランチの仕込みをしていた手を止めて、私の方を見た。
「見慣れるまで時間がかかりそうだな。」
 店長はつぶやいて、顔に驚きをとどめたまま、ゆっくりと途中だった作業に戻る。私は「すぐに慣れますよ。」とだけ言っておいた。すぐに、それまでの髪型なんて、写真でも見なければ思い出せなくなるんだから。
 次に、菖蒲ちゃん。彼女の反応は面白かった。
 昼の休憩に入った時、菖蒲ちゃんは更衣室で自分のロッカーを漁る私のところへ駆けこんできた。
「し、失恋ですか!?」
 第一声はこれだった。「最近の若者」と呼ばれる者の一人であろう彼女が、失恋とヘアーカットの迷信的なつながりを最初に疑ったのは意外だった。
「違うわよ。」
「でも、月島さん。急にそんなにバッサリ切るなんて。何かあったんですか?」
 少し興奮気味の彼女を見ていると、約一か月前に彼と別れたばかりとはとても思えない立ち直りようだ。人の髪型にこれほどの熱量で言及するところは少し可愛らしいが、それでも彼と別れてから、彼女はすこし大人になった気がする。
「もうすぐ春だしね。これまでは季節が変わってもこんなに切ったことはなかったんだけど、今年はちょっと冒険しようと思ってさ。」
 思いもしないことが口を突いて出てきた。そうだ、髪を切る理由なんてその程度のものなのだ。
「へえぇ。でも、良いと思います。ショート似合ってますよ。新鮮な月島さんって感じします。」
 菖蒲ちゃんは嘘がつけるほど器用ではないが、たまにそういう不器用さが気持ちいいと思う。彼女が言うなら、似合っているのだろう。
 最後にあの人。
「遠くからでもすぐに分かったよ。髪型変わったなって。」
 私たちは駅で待ち合わせをしていた。彼が先に到着していた。人混みに紛れて近づいていく私に、あの人はすぐに気づいた。これだけの変化にも関わらず、見間違いを疑うこともなかった。
「家では俺以外女3人だからね。妻はまだしも、最近では秋葉も『何か変わったと思わない?』って聞いてくるんだよ。女の子って恐ろしいよ。もう大人みたいなこと聞いてくる。」
 彼は困ったように、でもそれ以上に幸せそうに話した。
「でも、どこが変わったか聞くまでもなく、分かりやすかったでしょ?」
「そうだね。」
「それにしても、よく分かったわね。店長には別人かと思ったって言われたくらいなのに。」
「そりゃ分かるさ。」
 彼は続ける。
「ある人の変化に気付くには、その人の不変の部分を知らなければならない。」
「何それ?」
「大学時代の恩師の言葉。」
 彼はそう言って、短くなった私の髪に指を通し滑り下ろすと「行こうか。」と言って私を促した。

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