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江戸をぶらつこう(牛込・麹町・紀尾井町)

( 牛 込 )
 神楽坂は戦後、はん姐さんの芸者ワルツで全国にその名を知らしめ、田中角サン御用の「松ヶ枝」でも有名でした。神楽坂を上り詰めた処に在る毘沙門天の縁日は、名前は忘れましたが明治の文豪が山の手一と書いています。牛込には出版・印刷関係の業者が多いですが、一際目立つのが新潮社と旺文社です。
 当時の子供たちの戯れ句に「火事は本所か牛込か牛のキ〇タマ丸焼け(まあるやけ)」があったように記憶しております。(〇はご想像)
 他に東京女子医大、フジテレビなどです。
 
( 麹 町 )
 旧十五区(後述)の麹町は、丸の内、内幸町、有楽町、平河町、永田町、隼町、九段なども含めるようです。
 落語に登場する麹町の殿様はこの辺りに住む旗本のことです。
 町人は旗本には直に口が聞けませんでしたが、御家人には気軽に喋っていたようです。御家人の尊称は殿様ではなく「御前」でした。
 
( 紀尾井町 )
 紀州藩、尾州びしゅう藩、井伊家の上屋敷のあった処です。
 現在、此処には上智大学、最高級料亭の福田屋、ホテルニューオータニ、赤プリ(平成九年三月に閉鎖)、清水谷公園などがあります。
  
 徳川家康は九男の義直、十男の頼宣、十一男頼房にそれぞれ尾張六拾弐萬石、水戸参拾五萬石、紀伊五拾五萬石を与えました。
 将軍に嗣子の無い時は、この三家からてることとしました。いわゆる御三家です。
 七代家継の死で二代秀忠の血は途絶え、紀州藩主吉宗を八代将軍に迎えたのです。
 吉宗もその真似をして、次男宗武を田安家、三男宗伊むねただを一橋家、長男の九代家重の次男家好を清水家とし、将軍に嗣子の無い時はこの三家からも将軍を出せることとしました。これが三卿です。
 それぞれ、田安門、一橋門、清水門内に屋敷を与えられ、賄料壱拾萬石を拝領しましたが、他の門からの出入りは禁止され、城中にも詰め所はなかったといいます。但し、身分は高く水戸家と同じく従三位中納言に叙せられておりました。
 余談になりますが、尾張徳川家からは遂に一人の将軍も出なかったのです。


江戸をぶらつこう』は、今回をもって終了とさせていただきます。
ご愛読、誠にありがとうございました。

引き続き、「明治以降の東京をぶらつく」を皆様にお届けすべく、準備中です。
乞うご期待ください!   杜江馬龍もりえばりゅう


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