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ゴメが啼くとき(連載11)

 昭和十九年(一九四四年)の秋も深まった時季、ハナから意外なことを頼まれた。文江は十五歳になっていた。

「文江、幌泉ほろいずみの寿司屋さんで、子守りを探しているらしい。暫くそこで働いてくれないか」
 一瞬文江は我が耳を疑った。え? また奉公に出るのかと。
 文江には愚図ることも我儘も許されなかった。年末には弟妹たちが実家に戻る。自分の食い扶持くらい、自分で働いて稼がなければ、と思う文江であった。
 空を飛ぶ鳥や地を這う獣さえ、日々生きるために必死に餌を探し、時には他と争いながら食べものを確保して生きている。自分も生きるためには働かなくてはならない定めになっているのだと思った。そして一週間後、幌泉(当時)の大和寿しに奉公に入った。

 そこの乳飲み子の名前をリクと言った。生まれて半年ほどたつ。
 その店の主人は苫小牧で修業をし、故郷に錦を飾る気概で幌泉に戻り、すし店を開いた。
 苫小牧で既に結婚していた主人は、名前を中道隆と言った。女房の名前を道子と言った。二人は、幌泉に出てきてからすぐに子供が授かった。その店は、サケや鰊の水揚げが好調のせいか繁盛した。二人で切り盛りしているため、生まれたリクの世話を、住み込みで誰かに頼まざるを得ず、知り合いの紹介で、文江が来ることになったのである。

 店の二階が住居のため、四畳半一室が文江に与えられた。
 奉公に入って直ぐにリクの守りが始まった。リクは非常に大人しく手が掛からない子だった。
 文江の気持ちの中になんとなく余裕ができた。要はベテランの部類に入ったように見受けられた。
 心の中で、すし店ということは、お寿司が食べられると誰でもが思うのだが、まさにそうであった。美味しかった。道子の気性がさっぱりしていてなんの気兼ねも、いらなかった。

 幌泉の街中は、浮足立っていた。連日、新聞やラジオで大本営発表の勝ち誇ったアナウンスが流れていたのである。しかし、戦況は決してそうではなかった。当時の報道は、事実とはかけ離れた内容を国民に伝えていたのである。
 幌泉の若者の多くは徴兵されていった。
 その後日本は、敗戦の方向へと向かっていく。
 

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