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フロストレール

冬の花形スポーツと言えば、ジャンプ競技が挙げられます。
現在、日本のジャンプ界をけん引しているのは、男子では小林陵侑、女子では高梨沙羅です。

私が、ジャンプ台に興味を持ったのは、北海道出身で、雪の中で育ったせいばかりではないのです。

昭和58年(1983)の秋に、札幌市宮の森オリンピックシャンツェに、当時世界で4番目、日本で初めての70m級オールシーズン用スキージャンプシステムが設置されました。
私は、その工事に携わったのです。

このシステムは、助走路にフィンランドから輸入したフロストレール(Frost Rail)という全長93mのアルミ板(10~8mの蒸発器ユニットを10台並べたもの)の中に冷媒(フロンガス22)を通し、表面を凍結させることによって、雪のないシーズンでも、降雪時と同じ条件下でスキージャンプができるという、当時では画期的なものでした。
これによって、スキージャンパーは年間を通してのトレーニングが可能となったのです。

フロストレールの長さに対して、設置する架台が違うのではと、ゼネコンの現場監督に申し入れました。結局間違いではなく、お叱りを受けてしまいました。
日本で初の施設であり、試行錯誤しながらの施工でした。

日本ジャンプ陣が、この施設でオールシーズン練習を重ね、世界をけん引できる成績をあげられるようにとの大きな目標を達成すべく、工事に携わった各社の工事関係者は、意気軒高でした。
課題を一つ一つ解決しながらの工事でした。

それまでのジャンプ台を取り除き、ランディグバーンも整備しなおしました。
ジャンプ台の左側に、新たにリフトを設置する工事も本体工事と並行して実施しました。

頂上から滑ってくる通路を助走路といいます。
私の仕事は、その助走路に冷凍設備を設置する工事でした。
工事期間中、リュックサックに水と弁当を入れ、徒歩で登りました。
山登りのような行き来でした。

フィンランドからペンテポルカ社のフッカ氏が、現場に技術指導に来ていただき、SUOMI (OK) と太鼓判を頂きました。

時には、キタキツネが工事中のジャンプ台近辺に顔を出し、様子をうかがっていました。

日本には多くのジャンプ台があります。長野県にも何本ものジャンプ台があります。札幌にも大倉山ジャンプ台(90m級)、そして宮の森ジャンプ台(70m級)です。

昭和47年(1972)の札幌オリンピックの70m級(ノーマルヒル)で笠谷幸雄、金野昭次、青地清二がメダルを独占しました。
それ以来、日本のジャンプ陣を『日の丸飛行隊』と呼ぶようになりました。

その後、若手の八木、秋元らが活躍しましたが、国際的には日本のジャンプ陣は低迷期を迎えていたのです。
そのような中で、札幌市では、何とか日本ジャンプ陣を強くしようという機運も相まって、宮の森に夏でも練習ができる施設を造り、過去の栄光を取り戻そうとなったのです。

様々な困難な課題もありましたが、全て克服し、遂に工事は完成したのです。

完成したばかりのジャンプ台を、最初に飛んだのは、秋元でした。

平成10年(1998)の長野オリンピックでは、ラージヒル(90m級)団体で金メダル(岡部、斉藤、原田、船木)、ラージヒル個人で船木が金、原田が銅、ノーマルヒル(70m級)個人で船木が銀メダルを獲得しました。
それは、あの宮の森で夏場でも練習できた結果であるだろうと、いまでも思っています。

それまでは、スキージャンパーが年間を通してトレーニングするため、冬季以外でも練習できるように、ソーメン状の人工芝等による方法が考えられていました。しかし、昭和56年(1981)にフィンランド(Finland)のペンテポルカ社(Pentti Porkka oy)で開発されたフロストレールによって、こうした問題が解決されたのです。

フロストレールの研究は、フィンランドの科学者マッティ・プリ(Matti Pulli)氏によって考案されたものです。

私たちが入手した資料は、フロストレール設備の概略フローシートと、サンプル試作機(卓上型フロストレールと、空冷のコンデンシングユニット)だけでした。
また、フィンランドのラハチ(Lahati)に設置した冷凍機の参考能力が提示されました。

この計画は、このフロストレール板(通常の蒸発器に当たる部分)のみをペンテポルカ社から、日本の某商社が輸入し、他の設備は日本の技術により、札幌市宮の森オリンピックシャンツェに、オールシーズン用の70m級スキージャンプシステムを設置するというものでした。

その後、同設備は、長野県にも設置が検討されていたが、フロストレールに代わって、セラミック板の上に水を流してスキージャンプをすることができる装置が開発されたため、長野県には、その方式が採用されました。

札幌市宮の森オリンピックシャンツェのフロストレールも、平成8年(1996)に解体撤去され、平成9年度(1997)からは、セラミック板方式に変更になったのです。

こうした歴史の流れの中で、宮の森のフロストレールは、日本で最初であり、最後の設備でした。

以下に述べるように、フロストレール設備は、技術的に様々な問題を解決しながら完成することができました。

 

◆フロストレールの技術上の検討事項

※冷凍能力の算出

フロストレールの冷凍能力は、夏期の外気最高温度DB31℃(RH70%)の条件下で、屋外設置のフロストレール上に氷の厚さ4㎜/hr(2㎜でも滑走可能)を氷結できる能力とした。この設計条件から、圧縮機能力を得、安全係数、バックアップなども考慮し、圧縮機3台(三菱重工業株式会社製)を選定した。これは、1台故障しても運転可能な能力であり、既設のフィンランドの気象条件下での冷凍能力などと比較参考すると、ほぼ近い能力であった。

※フロストレールの大高低差等の問題

フロストレールは、北西斜面に、最大傾斜角度36度、延長93m、高低差 48mに設置される設備であった。

ここで、特に問題となることは、延長93m、高低差 48mの点であった。既設の技術資料のない状態で、この問題の解決のため、社内検討会を開催し、最終的には、飛び出す地点の下に圧縮機、アキュームレーターを設置し、フロストレールの高低差 48mの中間地点に、空冷の凝縮器を設置する方式を採用した。また、フラッシュガス防止のため、凝縮器から一番高いフロストレールまでの間に、熱交換器を3ヶ所設置した。

当時、一般的な既製品の空冷冷凍機の設置条件が、圧縮機から凝縮器、蒸発器(フロストレール部分)の距離は30m以内、凝縮器との高低差は15m以内という使用条件であった時代では、技術的に克服しなければならない主要点であった。
その後、現在では、一般ビルなどで、空冷のマルチエアコンなど が普及してきて、冷凍機と各カセット間の距離も100m以上、高低差も50m以上のものが出されてきている。しかし、当時は、そうしたことが心配の種となっていたのである。

※フロストレールの伸縮対策

各フロストレール(アルミ板)の伸縮の問題は、10~8mの各ユニットごとに据え付けられるフロストレールの隙間をどの程度にするかであった。その問題を検討し、札幌市の過去最高気温でもクリアできる隙間とした。

また、こうしたことを施工に反映させるため、隙間の調整は、据え付け時のフロストレール表面温度から逆算した「簡易的な隙間算出式」を用意し、設置には万全を期した。

なお、建築上の地震対策として、途中1ヶ所広めの隙間(この隙間があるため、ジャンパーは滑走の時に必ず上から目を凝らせて点検する必要があった)を取らねばならない個所等もあり、据え付け面でも非常に神経を使う必要があった。

※試運転結果とその後

こうした諸課題を抱えたフロストレール設備は、昭和58年(1983)10月に試運転を迎えた。各フロストレール板に熱伝対(各3点)等を設置し、予想通りの運転結果を検証することができた。

その後、毎年のスキージャンプ大会ごとに利用されたフロストレール設備も、前述したように、平成9年(1997)には、セラミック板方式に変更され、13年間の歴史に終止符を打つことになった。

ジャンプの歴史は、もともとはヨーロッパ、ノルウェーで、罪人にスキー板を履かせて、山の上から突き落としたのが起源らしい。

助走路のてっぺんから下を覗くと、ゾクゾク感が堪りません。ジャンプ競技選手には改めて、敬意します。   了                      

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