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ゴメが啼くとき(連載24)

 昭和二十七年(一九五二年)、長い冬から襟裳の自然が目覚めはじめた三月、積もっていた雪が幾分溶け、春めいてきた。
 
 その月の三日の夕方、いつもなら、ゴメやカラスの鳴き声がやかましいのだが、その日は静かなのだ。
 勇と文江は、何か不気味な予感を抱いた。そして、三月四日の午前十時過ぎ、突如家が揺れた。大きな地震がきた。十勝沖地震だった。

 文江はその日朝の早い時間から海岸に出ていたが、勇を残し、家に戻っていた時間だった。揺れの直後、勇が家の中に飛び込んできた。
「文江、地震だ、大きい地震だ。津波が来るんでねべか」
「昨日から海の様子がおかしいと思っていたら、ほれ地震がきたべさ」
「これは大きいぞ、文江! 大事なものだけ持って、裏山へ逃げるべ」
 文江は、すぐさま、愚図っていた長女の陽子を背負い、厚着をして、外へ飛び出した。近所の家からも人が山へ向かう姿があった。
「山羊を繋いだままだった」と勇が言った。
「今戻ったら、あんた! 命は無いべさ」と文江は勇を引き留めた。
 暫く登り、フンコツの入り江を振り向くと、大きな波が来るのが見えた。
 借金して建てた家だけは残ってくれと、文江は祈った。

 裏山の高台に避難した勇と文江は、その日の午後三時ごろ家に戻った。
 家の前の黄金道路には、打ち上げられた数えきれない瓦礫が散乱していた。
 飼っていた山羊の姿は見当たらなかった。何処かへ流されてしまったらしい。家は辛うじて被害は免れた。

 二人目の子供が生まれたのが、昭和二十八年(一九五三年)五月だった。男の子だった。勇は殊の外、嬉しがった。名前をいわおと付けた。

 次の年(昭和二十九年・一九五四年)の九月二十六日、またしても台風による高潮で裏山に逃げなければならなかった。あの洞爺丸台風だった。その日の夜中の二時ごろ荒れ狂う高波に襲われたのであった。暴風雨の中、いち早く気が付いたのが文江だった。寝ている皆を起こし、また、裏山に避難した。全員事なきを得た。

「あんた、いつまでここでびくびくしながら暮らしていけばいいのだべ」とある日、文江は勇に話した。
「そだな、庶野のお袋の家に厄介になるか。家族も増えたし、こったらところで、びくびくして暮らしてもな。今度機会を見て話してみるべ」

 その二か月後、一家は庶野の勇の実家に越したのであった。
 フンコツ(白浜)の家の借金は、二人で必死に働いて短期間で返済し終わっていたのである。

 後で振り返って、あの時、フンコツ(白浜)から庶野に移る決断をして良かったと胸を撫で下ろしたのであった。
 昭和三十五年(一九六〇年)五月二十四日早朝、チリ沖地震による大津波で、以前住んでいたフンコツ(白浜)の家は、波にさらわれてしまったのである。
 六年前の決断が、文江の家族を救った。

 勇は毎日のように庶野からフンコツの昆布小屋まで自転車で通った。文江もほとんど毎日のように通った。チリ沖地震の津波の時は、その昆布小屋も跡形もなく無くなってしまった。三軒ほどあった家も無くなってしまった。ただ、亡くなった人が、いなかったことが幸いだった。
 フンコツ(白浜)は無人となってしまった。
 勇は新たに小屋を建てた。前よりも小さい昆布小屋だった。
 

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