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海の男

 私は、あの方のことは、殆ど知らないと言っても過言ではない。
 寡黙な方であった。その方の名前をTさんという。

 そのTさんが二〇二〇年十一月末で退職された。当時七十四歳だった。

 私が今から九年ほど前に、今の会社にお世話になったときには、既に同じ職場に居た方である。
 石川県の輪島の出で、若い時分、船乗りとして、世界の海を渡っていたとのこと。海の男らしく、どこか頼れる雰囲気を醸し出している人であった。

 その後、東京で某設備関連会社を立ち上げ、経営者として手腕を振るっていたようだ。
 バブル崩壊後、あのリーマンショックでその会社をたたみ、部下の何人かを引き連れて、いまの会社に来たとのこと。Tさんのそのグループの年間売り上げは、会社全体の一〇%強もあり、会社に貢献している。

 二〇〇九年初め、のどに違和感があり病院で診てもらったところ、喉頭がんが見つかり、療養のため、会社を休み、地元の輪島に帰り、抗がん剤治療を続けていた。

 頭髪は元々濃いほうではなかったが、二〇二〇年十月に仕事に復帰したときは、すっかりなくなり、眉毛も真っ白となってしまった。以前よりすごみのある顔になった。

 四年ほど前であっただろうか、日曜日の昼NHK素人のど自慢を観ていたところ、その日は輪島からの放送だった。
 すると若い女性が、中島みゆきの歌(歌の名前は忘れたが)を歌って、鐘三つ、観客席の女性も映った。
 名前がTと言った。次の日、Tさんに確認したところ、Tさんの長女で、観客席にいた方は、奥さんとのこと。
 その時のTさんの表情が、何とも言えない幸福感に満ちていた。
 ほとんど仕事中は、感情を表に出さない方であったが、その時は違った。

 今冬は大雪と報道されている。
 お元気で自宅で、養生していることを願う。


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