不眠と上野と初音ミク

今日は書くことがないので上野で見たものについて書く。
当日のうちに書けという話だが、ろくにかける時間も環境もなかったのだから許してほしい。別に許されなかろうと書くが。
上野に行ったのは東京に行って2日目だった。
宿代をけちって完全個室のネカフェに泊まろうとしたが身分証を忘れていたため泊まることができず、仕方なく半個室のネカフェに泊まった。
そのうえよせばいいのにどうせろくに寝れないからと6時間だけ泊まることにしてしまった。寝れなかろうと休むべきだし朝早く出たとして金がないから時間もつぶせないのに「安い」という一点の理由から脳と足をズタボロにする羽目になった。精神はすでに荼毘に付されているため問題なかった。
結局2時間しか眠れず、寝不足にもかかわらず興奮している不審者が生まれてしまった。その時は間違いなく目がバキバキにキマっていたはずなので、いつもいる田舎でこうなっていたら職質は免れなかっただろうが、東京は魔都であるためその状態でも特に問題ないらしい。さすが毎日老若男女を労働力として食いつぶし、見目麗しい少女が自主的に売春をし、その少女を保護するでもなく締め出している東京だ。格が違う。
上野に向かったのは七時くらいだったような気がする。
確かネカフェからはじき出されたのが午前二時くらいだったと思うが、そこからの記憶がほとんどない。あるのはコンビニでトイレを借りようとしたが借りれず、駅のトイレも九時にならないと開かなかったためめちゃくちゃ焦った記憶だけだ。トイレを求めて上野に向かっていた気さえしてきた。
結局上野に行っても公園以外にトイレはなかったのだが。上野までの電車にはあまたのサラリーマンが乗っていたはずだが、ヒトと違い店が目覚めるのは遅いらしい。
上野に着いたはいいものの美術館に入れるのは九時からだったため、それまでベンチに座って時間をつぶしていた。するとおっさんがなんか話しかけてきた。曰く「あなたの健康を祈って1分ほどのお祈りをさせてほしい。」とのこと。興味がわかないでもなかったが、旅先でよりにもよって宗教関連のトラブルに巻き込まれては面倒なため、その場からはすぐに逃げた。
逃げたところでほかに時間をつぶせる場所もないため、またすぐに公園に戻った。するとおっさんは他のベンチに座っている人に話しかけていた。漏れなく全員に拒否されていたが。戻ってからおっさんにまた見つかったが、からまれることは無かった。一人当たりとの会話の時間も短かったため、割と話は通じるようではあった。ただ公園にいたホームレスらしい人に話しかけていなかったのは気になった。もちろん自分が上野に着く以前にお祈りしていた可能性はある。そもそもおっさんにも選ぶ権利があるといえばそれまでなため、それほど問題ではない。その場では断ったが考えてみれば別に他社の健康を祈るおっさんは悪ではないのだし祈ってもらってもよかったのでは?そもそもこれ以降会うかもわからない人の健康を祈るという別に何か利益があるとも思えないことをしているおっさんはもしかしたらこの上ない善人なのでは?時代と場所が違えば佯狂聖人とも呼ばれるような逸材かもしれない。どうかおっさんには末永く道行く人の健康を祈っていてほしい。
そんなことがあった後は特に何事もなく時間が過ぎ、国立西洋美術館に入ることができた。特に何が見たいわけでもなかったが、東京に来たからにはと何となく見に行った。結果から言えば好みの展示があったため大収穫だった。
特に布施琳太郎氏の展示が気に入った。人生の大半をボーカロイド音楽を聴いて過ごしている自分としては、氏の展示に用いられている初音ミクの音声でまずとても安心した。また、初音ミクが国立西洋美術館で展示されているいわば現代アートの第一線の作品に用いられているという事実がとてもうれしかった。もちろんそんなことを抜きにしても氏の作品は素晴らしい。
空間全体が作品として使われている。言い換えれば自身が作品に取り込まれるような体験ができるのは現代アート特有の魅力だろう。現代アートには詳しくないため的外れなことを書くかもしれないが、氏の作品の魅力について書きたい。空間全体が作品に使われているのは書いたとおりだが、空間は主に視覚的情報で認識される。だが氏の作品の鑑賞では聴覚も用いる。初音ミクの音声と恐らく加工された氏の細切れの音声が流されていて詩の朗読のようで心地よかった。パキパキの神経もこの展示のおかげで落ち着いてくれた。
もう一つ印象に残った展示がパープルームの展示だ。
漠然とした表現になるが、無秩序で混沌とした”インターネット”感が表れていて面白かった。
ミュージアムショップには両氏の本が売られていたため、半ば衝動的に買った。
その結果「ラブレターの書き方」という自分の人生に全く縁がなさそうな本を所有することになった。しかし言い換えれば新鮮な思考を読めるため楽しみにしておく。
また、もう一冊のよくわからない本は表紙買いした。幾原邦彦的な描き方でサロメの図像が描かれているのが美しくなおかつ面白かった。正直内容も見ずに買ったが、表紙がとても魅力的だったため後悔はない。
前日に歌舞伎町などの言ってしまえば醜いものを見て回っていたため、展示の美しさとの差が激しく美でキまることができた。
展示を見て回った後駅に向かう道中、植え込みに串に刺さった焼き魚が挿されていた。しかもおそらく食べ残しの。もしかしたらこれも檸檬のように挿した当人からすれば劇的な心情の変化があったのかもしれない。こんな風に考えれば今まで醜いと思っていたものも受け入れられるかもしれない。
ただ混沌をまじかで眺めるのは疲れたため今のところもう東京に行きたいと思わないし、もしかしたら向こう十年このままかもしれない。



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