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あけぼの草

 春色の蕾が、ぷっくりと頬を膨らませた。
 もうすぐこの子は、咲くのだろうか。頬に溜めた空気をふっと吹き出して、微笑むのだろうか。私は笑う気分になれないのだが。
 呼吸をする度、暖かくなった空気が体に入ってくる。それとともに、荒んだ心がほぐれていくような気がした。おそらく、悩みが尽きることはない。しかし、人はどんなことでも乗り越えられるのだろう。
 冷たい風とともに、覚えのある香りがした。あの子だ、と私は思った。私は勢いよく顔をあげ、辺りを見渡したが、どこにもあの子の姿はなかった。本当に消えてしまったのか。それとも、存在しなかったのか、今ではもうわからない。
 丁度、あの日も少し暖かかった。

 その日、私はバイトをクビになった。昔から要領の悪い私は、何をやるにも人を怒らせてばかりだった。人を怒らせれば怒らせるほど、そうさせてしまう自分が嫌になった。けれど、どんなに気を配ろうと、人一倍努力をしようと、結果はいつも変わらなかった。何でもできてしまう人間が羨ましかった。同じことをしても怒られない人間が許せなかった。自分が自分でなければ良かった、と何度思ったことだろう。人を羨んだり妬んだりしたところで、どうにもならないというのに。
 そんなことを考え、俯いていた時だった。暖かいものが私の頬に触れた。顔を上げると、女の人が涙を流して、私の頬に手を当てていた。私は半ば狼狽えながら、鞄からハンカチを取り出して、その人に差し出した。その人はそれを受け取って、ふわっと笑った。その笑顔に一時、心を奪われた。そして、はっと我に返り、「どうか、したんですか?」と聞いた。
 その人は首を横に振って、私の目を見た。そして、「あなたが悲しそうにしてたから」と言った。
 私にはその言葉が理解できなかった。人はこのように誰かを想って泣けるものだろうか。否、泣けるものではないだろう。身内や親しい人ならともかく、こんな見ず知らずの人間のために。
 もしかしたら、私が冷たいだけなのかもしれない。
 すると、彼女の涙が勢いを増した。まるで、そんな悲しいことを言わないで、と言っているようだった。
 仕方なく、彼女の背中を撫でていると、泣きながら話をしてくれた。彼女は人の思いを感じ取る力があるのだと。そして、そのために情緒が不安定なりがちなのだと。
 私は最初、その話が本当のこととは思えなかった。しかし、話を聞いているうちに、それが本当のことのように思えてきた。
 私は彼女に自分のことを話した。彼女は泣きながらも、話を聞いてくれた。それだけで私は自分を好きになれた気がした。
 それからというもの、彼女とは事あるごとに会うようになった。私がその場所に行くと、彼女は決まってそこにいて、話を聞いてくれた。
 けれど、ある日を境に、私はそこに行かなくなった。
 ふと、彼女のことが気になって、そこに行ったときには、彼女はもういなかった。次の日もその次の日も毎日毎日、訪ねて行ったが、彼女は姿を現さなかった。
 私は彼女の記憶が薄れていくのに気がついた。時が経ったからとは思えなかった。人間が忘れる生き物だからとも思えなかった。私にはどうしても摩訶不思議な力が作用しているようにしか思えなかった。こうして物語っている今も、彼女のことをはっきりと思い出すことができない。まるで、彼女という存在など、最初からいなかったように。

 記憶がなくなる前に、もう一度、あの子に会いたい。会って、伝えたい。
 ありがとう、私はもう大丈夫、と。もう自分を嫌いになったりしない、と。

「ありがとう」
 あの子の声がした。
 振り返ると、そこには一輪の桜が花を咲かせていた。

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