関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語⑧
今日は④「福岡来ちゃえばいいのに!」というパルプンテを書く。
7月の大学院での報告、12月の大会での報告を終え、それぞれおもしろいフィードバックがあった。
「自分の実践をふりかえる機会になった」とか「明日からも現場でがんばれます」とか、それはピアスタッフの方だったり、専門家の方々からのものだったりした。
自分は修論の歴史研究を通して、当時の現場(主に当事者活動というか社会運動というか)で起きていたあれこれを目撃してきたかのような気分でいた。それを自分なりに再構成して記述した歴史研究部分を要約したものを報告すると、「昔を思い出した」と言い出す実践者たちのフィードバックがなんだかとても新鮮で興味深く、気になりはじめていた。
気になるなら、機会をつくって聞いちゃえばいいんだ!と思ったぼくは、当時取り組んでいた博士論文のことを完全にほっぽりだして、趣味として、福岡で報告を聴いてくれた方々の中で好感触だった実践家の方にアポを取り始めた。
その実践家の中に、精神衛生法時代を知るこの道約40年のキャリアを有する、後にぼくにパルプンテをかけることとなる福岡のお母さんがいた。
福岡のお母さんは、彼女と一緒に公務員という立場から地域の精神保健医療福祉の実践をしてきた方も交えて、3人で話しましょうと提案してくれた。
「やそらさんの研究は広がると思うから」とのことだった。
この時は、どんな風に広がると言っているのか、よくわからなかった。
そんなアポをとっていると、大会の打上げが2月に福岡で開かれるという。
それに合わせてきなよ~ということになっていった。
ぼくには12月の大会の時に心残りがあった。
それこそ、講演が終わった後に盛り上がった流れで打上げがあったりなんかして、鍋を囲むなんてことがあるのではなかろうか?と期待を抱いていた。
結局そんな機会は訪れず、講師という大役を終えたぼくはひとり寂しく長浜らーめんを食べたのだった…。そんな悲しい心残りがあった。
けど2月の打上げでは、もつ鍋をたべるというではないか…!
これは行くしかないと思った。楽しみで仕方なかった。
そしてぼくはまた福岡へ向かった。
今度は新幹線ではなく、飛行機で。
打上げ当日は、幸運にも大会当日、ぼくの分科会を聴きに来てくれていた人が集まるテーブルに割り振って貰えた。
そして、隣に座った福岡のお母さんの飲むスピードに合わせて結構テンポよくビールを飲んだし、もつ鍋も平らげていった。
知識としては知ってたし、福岡のお母さんの今までの実践経験としても、こういう風に人が集まってわいわい飲み食いする場所の重要さを実感した。そこには活気やエネルギーがあって、「次何かやるぞ」という新しい動力源になるような雰囲気があった。
当日は時間もなかったので語られることがなかった、自分の話を聴いた方々からのたくさんのフィードバックがあった。
「勇気があるなと思った!」
「不登校している時、俺みたいな奴がいるから、みんな“普通”の顔して表歩けてるんだろ!とか当時から吠えていたとか、そこらへんの話は共感した」
「自分の実践が歴史的にみると、どんなところでどんなことをしてきていたのかがわかった」
「聴いていた人をすごく勇気づける話で、滞っていた血流が流れ出すような、そういうとても刺激的な話だったよ」などなど
そしてその場でぼくは、「今度福岡市で開かれるこういう公開講座があるんだけど…」と、次なる講師依頼の話をもらっていた。
たしか、その打上げの席でだったと思う。ぼくが、福岡のお母さんに「福岡来ちゃえばいいのに!」と声をかけられたのは。
福岡にはいろいろなご縁を感じていたし、いいところだな~と思っていたが、「いやいやいやいや」と猛烈に否定していた。
「関東でお世話になって来た障害者運動とのしがらみというか…、関東で自分にはやらないといけないことがあるので、それをこなすまでは、どこにも行けないんです!」と咄嗟に断っていた。
第一この頃ちょうどぼくは、職場に行くのがしんどすぎて、けど職場が研究対象でもあったのでそれらの負担を軽減するためにも東京西部から神奈川県への引越しを検討していたタイミングだった。
後からふりかえれば、ぼくは自分自身でいままでかかわってきた自立生活運動との関係性を総称して「しがらみ」とか言っちゃってる…笑。この人疲れてるやん…!とか自嘲気味に突っ込んだものだった。
ドラゴンクエストの使うと何が起こるかわからない呪文、パルプンテを福岡のお母さんにかけられた瞬間だった。彼女はたまにパルプンテを唱える、パルプンテの使い手を自認していた。
2月の福岡訪問に関しては、パルプンテ以外に2つ話題に触れておきたい。
1つは、福岡のお母さん以外にもIさんに会ってお話を聴く機会があったということ。その4か月後、ぼくはその場所にまったく異なる立場で再び訪れることになる。
2つ目は、福岡のお母さんと彼女が紹介してくれた現場で長年一緒にやってきた公務員のかたとのお話タイムだった。福岡でどのような当事者活動があって、それらに彼女ら30年以上現場にいる方々がどんな風にかかわってきたかを伺ったのだ。
はぇ~、なるほどな~と思いながら楽しく話を聴いた。
その対面を終えて、福岡のお母さんとのメールのやり取りがいろいろ刺激的だった。
まず彼女が言っていた「研究が広がる」というのは、修論には既に立派な骨組みがあるから、もっと内装を豊かにすればより豊かなものになるはずだというようなことだった。ぼくは文献や資料からしか、歴史や当時のことを知らない。それでもこれだけまとめ上げられたのはすごい、そこに私たちみたいな現場で実際にいろいろやってきた人間の話を聴いてもらえれば、もっとその内装が豊かになると思うということだった。
なんてありがたいことだろうと感じ入った。
骨組みといえば、ぼくは以前指導教員に「やそらさんの修論は、論理とことばをお城のように緻密に積み上げたもの」と表現されたことがある。
そして修論を書き終えたぼくはといえば、その積み上げたお城の上から、せっかくいいモノを作ったのに誰も来ないぞ…?おかしいな??、目に付くはずなんだけどな…と孤立感を深めながら、待ちぼうけていたのだ。
そういう話をメールで福岡のお母さんに言ったら、驚くことを言われた。
私と仲間の方はそんなやそらさんの研究やお城をもっと内装豊かにしたいと思って、あなたの研究やお城の中に飛び込んだんですよ。
これを言われた自分はたまげた。
城を作ったはいいが、そこに人を招く準備なんて何もしていなかった。
ぼくはせっかく、自分が築いた城にはじめて入ってきてくれたらしい方々に対して、何ももてなしの準備をしていなかったことを詫びた。いままでのぼくは、その城を主に「抵抗拠点」とか「闘うための場」として捉えていたような気がする。休息する場の目印、みたいなニュアンスもあったけど。
実は福岡のお母さんと二人で居酒屋でドラクエトークをしていた時、パルプンテからはじまりどんどん話が展開していった。
「最近のぼくの実感としては、いままでずっとロトみたいにソロプレイでしたが、ドラクエ3の世界に入って4人パーティの一番後ろの隊列で遊び人をやっていたいんですよね…!笑」と大真面目に語ったりした。
パーティ内の隊列の後ろにいけばいくほど、敵からの物理攻撃を食らう可能性が減る。隊列の後ろで真面目に闘うことなく、コマンドを無視して、「遊び人は口笛を吹いている」とかが、本当にあの時はやりたかった。
それで、「パーティ」から派生して、メールでこんなやり取りもした。
そういえば、別に自分が築いたお城の中でパーティをしてもいいんですもんね!
すると福岡のお母さんは、こんな風に返してくれた。
「パーティやる時は、私もお仲間も一緒に料理を作ったり出したりする位はできるから。まかせて」
うまく言えないけど、自分が開かれていくような対話/コミュニケーションだった。本当にぼくは修論を通じて、社会化されている。
そうしてパルプンテをかけられたぼくは、とにもかくにも職場の近くへ引っ越すことを決めるが、福岡への想いは確実に募って行っていたのだった。
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