希望の感覚

先日リカバリーストーリーの語り手として研修講師をした際、聴講者の中から「やそらさんが人に話をする時、希望の感覚のようなものを人に伝えるために何か工夫していることはありますか?」と質問をいただいた。

その日は自分としては具合が悪く、人前で話をするのもしんどかった。そんな中「リカバリーストーリー」を語らなくてはならないのがしんどかった。

それでもその聴講者の方としては、自分の語りに「希望を感じた」らしい。

だからこんな質問をしてくれたらしい。

「希望」ってなんだろう。

人と話していると、「目標」と「希望」の違いってなんだろうという話になった。

きっと「目標」は、TOEICで800点取るなど「到達することが目的のモノ」だろう。

それに対して「希望」は、TOEFLで110点以上取って留学先で〇〇を学ぶ!など、「聴いてる人に楽しい感じや語り手のワクワク感が伝わってくるような感覚を伴う話を聴いた際に感じるモノ」なのではないか、という整理がされていった。

「希望」はきっと、語り手から楽しい感じやワクワクしている雰囲気が伝わってくる時に、聴き手がその語りから「希望」を感じやすいのではないか。

それは自分が当事者研究者という生き方において大事にしてきたことと一致する。

それなら24歳の時に今の生き方を選んでから、実は自分の根っこは何も変わっていないのかもしれない、そんな風に思えてきた。

自分が精神保健福祉分野で「リカバリーストーリーの語り手」としてやってみようと思えたきっかけの一つは、ダニエル・フィッシャーのリカバリーストーリー/論との出会いだった。

そこには「大きな希望」とも呼べそうなものが語られていた。

そのせいか、自分は無意識に「大きな希望」をリカバリーストーリーの語り手として語ろう語ろうと気を張っていたような気がする。

昨日、カウンセラーに「希望ってなんだと思いますか~?」と質問をした。

カウンセラーは、「仕事柄、死にたくなってしまっている人とか実際に死のうとしてしまう人を相手にしてるからね~」と前置きをして語り出した。

カウンセラーが語ったのは、「小さな希望」とでも呼べるような、「生きていてよかったな~」と思えるような日常の些細な幸せに関わる事柄だった。

「そういう実感を抱けなくてしんどくなってる人」がカウンセリングに来るのだけど、そういう「小さな希望」こそが大事なのではないかと。

ぼくはいろいろと考えさせられた。

久しぶりの晴れ間、太陽の光を浴びることが気持ちよいこと。
日の出ている中、洗濯物を干す午前中の清々しさ。
行きつけのジョイフルで過ごすモーニングの時間。
サイクリングで海沿いを走る時の気持ちよさ。
車を運転する時の楽しい感じ。
散歩中、視界の隅に入ってくる変化や季節を感じさせるモノたち。

人と話している時に知的に興奮する時、ワクワクする時。
気持ちのいい空間でゆったり過ごす時間。
整体やマッサージを受けている時間。
温泉や岩盤浴でのんびりする時間。
筋トレに行くと気持ちいい。
カラオケで歌いまくるとスカっとする。
美味しいものを人と食べると幸せ。

ぼくの30歳の目標は「楽しく、幸せに」生きるである。
30歳という節目を迎え新天地で生きて行くにあたって、ぼくはあえて「大きな希望」を掲げる必要があった。そんな「大きな希望」を掲げた反動でバランス崩した部分もあるのでは?とある人に指摘されたりもした。

「希望」について、最近人と話をしていた際に「楽しさやワクワクする感じを伴う、希望に伴う話を意識的に話したりふりかえったりすることで、トラウマティックな思考や癖、自分の持つパターンを変えていくことができるかもしれない」という気づきがあった。

その時、ぼくは無意識に「大きな希望」にまつわる話をしていた。

「大きな希望」はダニエル・フィッシャーが言うように絶望し何か新しいことに取り組むのに必要な希望が足りていない人に希望を貸すために必要な資源だろうな、とは思う。しかし、ぼくのような人間には意識的に「他者の希望」になろうとする実践は、とてもしんどく燃え尽きやすい気がしている。

自分が楽しくワクワクするようなことを、いわゆる社会的マイノリティ、当事者の立場から敢えて発信する。

その語りを結果的に多くの人が「大きな希望」と捉える。
そもそも研修講師という立場、研修という場がぼくをそのような語り手たらしめる構造を有している。そこでぼくは、聴講者との相互作用を通じて「リカバリーストーリーの語り手」になる。

そのように自分の実践を整理することもできそう。

最近とみに感じるのは、きっと多くの人は「日常」に埋もれる。
だから「希望」を語っている余裕なんてない。
きっと、当事者が「希望」を語るからこそインパクトがある。

そういう役割を担わなくては…!となっていた。
けど、カウンセラーに教わった「小さな希望」的な考え方は、より自分の生活を落ち着いたモノ、安心できるモノにしていくために切に必要とされている視点、発想なのかもしれないと思った。

「悪いこと」ばかり記憶や印象に残る。
「自分の悪い面」ばかり目に付く。
それに抵抗するためにも「小さな希望」にもっと目をやる。意識を向ける。

幸せなんかそこら中いっぱい落ちてるから
欲張らずに拾っていこう  Mr. Children ひびき

想像以上にとりとめもない文章になってしまったが、希望の感覚について書き出してみたらこんな文章になった。

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