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連座制が好きな人の原因

付いて行けないとか言い出す人が存在する。

自分が付いて行くかどうかに価値があると思っているのだろうか。

何で付いてくる必要があるのか。
自分の道を歩めばいいだけ。
聖書では自分の道を歩む描写が多い。

サムエル記上 26:25
サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ。お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。
詩編 119:59
わたしは自分の道を思い返し
立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。
箴言 9:15
道行く人に呼びかける
自分の道をまっすぐ急ぐ人々に。
箴言 16:9
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。
箴言 21:29
神に逆らう者は厚かましく事を行う。正しい人は自分の道を整える。
エレミヤ書 26:13
今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の声に聞き従わねばならない。主はこのように告げられた災いを思い直されるかもしれない。
ヨエル書 2:7
彼らは勇士のように走り
戦士のように城壁をよじ登る。おのおの自分の道を進み
進路を外れることはない。
ルカによる福音書 13:33
だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。

他人の聖書解釈は参考にはなっても、最終的には自分で聖書を読んで、自分で信じて、自分で聖書解釈する必要がある。

神の信者なら、最終的に自分の道を歩むモノだと考えるから、付いて行けないとかいう発想にならない。

非信者は、何で付いて行けないという話になるのだろうか。

人間は無責任だから連帯責任をしたがるのだろうか。
人間は、エヴァとアダムの時から責任転嫁をするから、責任を取らないと気が済まないのだろう。

人間が自分で責任を取らないから、強制的に連座制で責任を取らせたいのだろうか。
非信者なら自分で自主的に責任を取らないけど、神の信者なら自分で自主的に責任を取るから、連座制は邪魔である。
自主的に責任を取るのに、連座制なんか存在すると、自主的に責任を取った証明にならない。
そのため、連座制が制度として存在していたら、神の信者は絶対に責任を取らない。
世を愛してはならないから、世間に迎合するような連座制は従わない。
連座制の無い社会なら責任を取るけど、連座制のある社会なら責任を取らない。

聖書では、親の罪が子に報わない。

父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。

申命記 24:16

子の罪も親に報わない。
他人の罪を擦り付けてはいけないから、連座制なら責任を取らない。
自分の罪によって死刑になるだけだから、他人の罪では責任を取らない。
他人の罪を背負うのは背教行為だから背負わない。
自分の罪を他人に背負わせるのも背教行為である。
他人の罪を、そのまた別の他人に背負わせるのも背教行為になる。

本来は、神に対して責任を感じる事で不安を解消できるけど、サタン側が神の存在を隠したから、人々は責任感を果たす存在を失ってしまい、責任感を果たす対象を探し求めるようになる。
神に対して責任感と罪悪感があるのに、神を知らないから、不安感の正体が認識できなくなる。
非信者は、それが連座制・連帯責任で代償行為にするところへ行き着く。

元々、人類は、エヴァとアダムが神に対して無責任な責任転嫁をしたから、責任感を果たすのが試練になっている。
責任感を果たすのが本能になっている。少なくとも、責任を果たさないのが罪悪感になるように刻み込まれている。
神に立ち帰れば、神に対する罪悪感がなくなる。
神に立ち帰らないとブラック企業や同調圧力に対して自己犠牲をして責任を果たしている気分になる。しかし、それは代償行為だから、罪悪感はなくならない。
非信者が連座制を好きなのは、自分の不安感や罪悪感を紛らわせる快楽みたいになっているからだろう。これが非信者が連座制を好きな原因だ。

命は神のために使って殉教すべきである。
連帯責任で他人のために命を捨てるのは、神に背くから地獄へ落ちる。
神の信者のために命を懸けるなら、神に従う行為だから天国へ入れる。

イエス・キリストは連座制の迫害の冤罪で殺されたのだろうか。
そうではないと思う。
そもそも、ファリサイ派やユダヤ人は、連座制でキリストを殺していない。単に迫害と濡れ衣で殺した。
聖書では、旧約で連座制をやっている人々に対して、親の罪を子に背負わせてはならないと神が言っている。

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