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死刑賛成派の逆切れ サタン信仰は実行不可 正しい誤訳 救助は同じ経験が必要 カルト潰し

1、死刑
不治の病の人が死刑を恐れず犯罪をしたら、死刑賛成派が逆切れする。
賛成派は効果なし・逆効果をした愚かさと罪を直視できない。

自分の罪と責任を認め、受け入れ、反省するのが天国へ入れる条件だ。
賛成にしろ反対にしろ、結果の全てに責任を背負う義務がある。
賛成と反対は、免罪符ではない。

死刑賛成して、死刑制度が存在していて、犯罪者がこれ以上の罪を重ねても死刑に変わりがないと思って、さらに人を殺したら、死刑に賛成した人間の責任になる。
死刑反対して、死刑制度が廃止されて、死刑にならないから罪を重ねる犯人が居たら、死刑に反対した人間の責任になる。

賛成しても死刑が実行されなければ、説得力が無かった責任が発生する。
反対しても死刑が実行されたら、止められなかった責任が発生する。
賛成と反対は免罪符ではない事実を覚えろ。
退く事を覚えろ。一度、自分を退いて客観的に見る事を覚えろ。
いずれにしても、プラスマイナスを天秤にかけて、制度を存続するか廃止にするか選ぶ覚悟が大事だ。
何事も自分の決定に責任を持つ必要がある。

逆切れする賛成派は、単純に八つ当たり・憂さ晴らし・正義面で人殺しを楽しみたいだけだろう。
何をするにしても責任の発生を覚悟している人なら、逆切れしないで、自分の罪と責任を受け止める。
殺人を楽しみたい人間は責任が発生すると逆切れして責任転嫁する。
逆切れで責任逃れできた成功体験があるのだろうけど、実際はまともな集団から排除されて、人生が失敗している。
逆切れ人間は、あらゆるものが人命も含めて、自分の利益のための道具と思っていて、賛成・反対も自分の道具と思っているのだろう。

2、逆切れ人間
逆切れ。
八つ当たり。
憂さ晴らし。
正義ゴッコ。
無責任。
責任転嫁。
言い逃れ。
開き直り。
効果がない事しかしない。
逆効果ばかりする。

俺の毒親も逆切れで責任逃れをする。
逆切れが通用しないとウソ泣きする。
ウソ泣きも通用しないと逃げる。
無視すれば済むと思っているような人間だ。
毒親のせいで子供が受験で失敗しても、こんな田舎で進学しても意味がないと責任逃れを言う。
責任が発生すると怒って責任追及を黙らせようとする。
無言で威圧して責任追及をやめさせようとする。

3、個人的
個人的には死刑制度があってもなくても、どちらでもいいから、どちらになっても責任を取るけど、聖書的には死刑は制定されているため、信者的に死刑制度は賛成である。

旧約聖書では、悪人をその場で裁判なしで死刑にする場面がある。

4、特定
特定の国家だけを攻撃するのは、どこかの国の国家主義である。
だから、反日は日本以外の国の国家主義者だから、悪魔崇拝の背教者である。
全ての国はサタンの支配下だから、全ての国を批判する。

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。

ルカ福音書 4章6節 新共同訳

神は、権力を与える役割をサタンに任せているから、全ての国の権力者はサタンの手下である。

5、サタン信仰は物理的に不可能
天の主以外を信仰する事は不可能なのが、サタンには判っているから、魂を売った人間がサタンである自分を信仰してないから痛めつける。

誰かを信じて騙されて怒る人は、自分で責任を背負いたくなくて、責任を他人に擦り付けたいから、他人を信じている演技をしただけだ。
不思議に思ったけど、どうして無宗教者は、自分が何かを信仰する能力があると思っているのだろうか。
無宗教者は科学を信じると言うけど、どうして何かを信じる能力があると思っているのだろうか。
何か科学的根拠があるのだろうか。

神道や仏教などで悪魔崇拝ができる感受性と知能があれば、神を信仰する能力は備わっている見なせる。

ただ、崇拝と信仰は、少し違うような気がする。あくまでも、俺の主観だから話半分で聞いて欲しい。
ルカ福音書でサタンを拝む事はできるけど、信仰できるとは書いてない。

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

ルカ福音書 4章6節から8節 新共同訳

サタンと神は読者に対して言っているのかもしれないけど、サタンは「もしわたしを拝むなら」と言うだけで、神であるイエス・キリストは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言う。
この部分から、サタンは人間がサタン自身を信仰する事は不可能だと認識している。だから、「もしわたしを拝むなら」と言うだけで、仕えよとは言わなかった。

「信仰」と「仕え」は似たような意味だろう。
他人を信じていると言っている人は、その他人に仕えていなければ、信じているとは言えない。
科学を信じていると言っている人は、科学に仕えて、科学のために人生を捧げていなければ、科学を信じているとは言えない。
科学を信じているのではなくて、科学を利用している。
もし、科学に利用価値が無ければ、科学を信じていないだろう。
科学を信じているのではなくて、利用価値のあるモノを信じている振りして利用しているだけだ。

神以外で最も力のあるサタンに対してでさえ、信仰する事が不可能だから、サタンよりも弱い者やサタンの手下を信仰するのは不可能だ。
神が人を創った時に、神以外を信仰する事はできないように創った。
信仰の自由などという、サタン側のでっち上げに洗脳されているから、自分が何でも信仰する能力があると思考停止している。
神を信じる事で自由になり、天の主に立ち帰らなければ不安に悩む。

6、死刑宣告
例の薬害の後遺症が存在しないと思っている人は、テレビに死刑宣告されたら薬害後遺症を認識できるのだろうか。
生き死にの認識を他人に任せるのか。
病気の判定を他人に任せるのか。
薬害や毒殺の判定を他人に任せるのか。
自分の命綱を他人に握らせているのか。
生殺与奪の権を他人に握らせる人生。

7、バベル
なぜ、神は、バベルの塔で、人々の言語を通じなくしたのか。
その理由は、それぞれの言語だけで聖書を解釈するように、神が計画したのかもしれない。
人類が統一言語だけでは、聖書解釈に失敗するのだろうか。
とりあえず、日本語だけの解釈をした後で、他の言語を勉強する。
もしかしたら、翻訳ミスがある方が、正しく解釈できる人が出てくるのだろうか。
そもそも、人間は不完全なものだから、完璧な翻訳でなければならない理由はない。全知全能の完璧は神だけのモノだ。
完璧に翻訳しようと思うと失敗するけど、神の気持ちを知りたいと思って翻訳すれば成功する。
バベルで言語を分裂させたのは、誤訳させるためかもしれない。
翻訳が完璧でなければならないという考え方は、完璧な神に対する冒涜になる。人間が完璧に何かをするなど、傲慢にもほどがある。
人間が不完全に誤訳をするのも、神の計画の内である。
完璧でなければいけないと思い込んでいるのが、既にサタン側に洗脳されている証拠である。
完璧主義を洗脳された状態だと、罪を犯した人類という神の教えに拒絶反応が出るから、神に立ち帰りづらくなるため、サタン側は人々が立ち帰りづらくなるように思考法をマインドコントロールする。

8,学校
そういう完璧主義に成り果ててしまう原因は、満点を取るように学校で洗脳されるからだろう。
間違えるたびに×を付けられるからだ。
全ての国はサタンの支配下なのだから、学校もサタンの支配下。
しかし、学校へ行った方がいい。
読解力が無ければ、聖書を読めないからだ。
ただ、独学で読み書き計算ができるようになるなら、それもいいだろう。だけど、他の人と同じ経験をしていないから、自分の聖書解釈を説明しようと思っても、かなり難しくなる。
文化が違うと説明するのが難しくなる。
もし、外国人が日本語を理解できるとしても、日本文化を伝えるのは難しいだろう。
自分が外国語をできるとしても、日本文化を伝えるのは難しいだろう。
同じ経験をしていない相手に何かを説明するのは難しい。
音楽でも、聴いた音楽を、聴いてない人に説明するのは、難しい。
映画でも、見てない人に説明するのは難しいし、共感するのも難しい。
自分一人が理解するだけなら、独学で読み書き計算を習得したらいい。
しかし、人々を助けたいなら、人々と同じ経験が必要。
海で溺れている人を助けたいなら、自分が溺れた経験が必要だ。
海で溺れている人を助けたいなら、自分も海に居る必要がある。
海で溺れている人を助けたいなら、自分が山に居たら不可能だ。
なぜ、自分はサタン側に騙されるのか。
それは、騙された経験をして、騙されている人々を助けるためだ。

9、カルト
カルトの法律違反を糾弾しても意味がない。
そのカルトを潰したいなら、そのカルトが経典にしている内容に反している言動を糾弾する必要がある。
聖書を経典にしているなら、聖書の内容に反した言動を糾弾して、教義の観点で根本から叩く必要がある。
例えば、以下のような糾弾の仕方になる。

聖書では、神以外を父と呼んではいけないと書いてあるから、教祖を父と呼んでいるのはカルトの偽装キリスト教団だ。

新約聖書:マタイによる福音書:23章:9節
また、地上のだれをも、呼んではならない。あなたがたのはただひとり、すなわち、天にいますである

聖書では、神が分裂を齎すと書いているから、統一や連合を掲げるカルトは偽装キリスト教団だ。

新約聖書:ルカによる福音書:12章:51節
あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。

聖書では、神は剣という戦争を持って来るから、平和を掲げるカルトは偽装キリスト教団だ。

新約聖書:マタイによる福音書:10章:34節
地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである

「平和を掲げているから良い教団だと思っていた」などと言う人間が居るけど、聖書を読まない無学だ。

聖書では、家族を捨てろと書いているから、家庭の守るように言うカルトは偽装キリスト教団だ。

新約聖書:ルカによる福音書:14章:26節
「だれでも、、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。

聖書では、大げさに見せつけるように祈るなと書いているから、大げさに見せつけて祈る姿を映像に残すのは偽装キリスト教団だ。

新約聖書:マタイによる福音書:6章:5節
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らはに見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

他にも、偶像崇拝が禁止なのに、物体の十字架・像・ステンドグラスなどで偶像を掲げるのも偽装キリスト教団だ。

父と呼んではいけないのに、指導者に父の文字を付けるのも偽装キリスト教団である。
師と呼んではいけないのに、指導者に師の文字を付けるのも偽装キリスト教団である。

新約聖書:マタイによる福音書:23章:10節
また、あなたがたは教と呼ばれてはならない。あなたがたの教はただひとり、すなわち、キリストである。

こうやって、教義の面から糾弾する必要がある。
素人は、余計な事をして状況を悪化させて、カルトが余計に団結する。
法律違反で叩くと、なぜか迫害されたと、すり替えて団結する。
相手を説得する時に、こちらの理屈・価値観・都合で殴っても意固地になるだけ。相手の価値観を根本から論破する必要がある。
相手が現行犯の犯罪者なら問答無用で制圧すればいいけど、説得するなら相手の価値観をどうにかするしかない。
せめて聖書を一回でも通読してから取り組めと思う。
幕末から維新までの間でも、キリスト教徒を政府関係者が相手する時に、聖書を読んでから対応したらしい。
西郷隆盛は聖書を読んでいた。その西郷から、聖書を部下に渡して、読ませてからキリスト教徒を相手させた。

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