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敵を愛するとは敵に天国へ入る方法を教えて、立ち帰れば天国での同居を喜ぶ事 昨日の追記

1、愛とは
敵を愛せとはどういう意味なのか。
愛とは、天国へ入る事。
どんな敵だろうと、天国へ入る方法を教えて、もし天国へ入れるぐらい天の主へ立ち帰っているなら、同居する事を喜ぶという意味だろう。
例え毒親だろうと、キチンと天の主へ立ち帰って、反省しているなら、天国で同居する事になっても喜ぶ。
自分の個人的な恨みではなく、神の心に適うなら、生きている間の敵だろうと、天国で同居するのを喜ぶ。
そのためにも、天国に入る方法を敵に教える。
天国に入る方法とは、聖書を自分で読み、神を信じて、神の掟を守る事。
この方法を教えるのが敵を愛するという意味。
そして、敵と天国で同居できるのを喜ぶ心持の事だ、と俺は主観的に思った。
個人的には恨みのある相手でも、同じ神を信じるなら仲間だから、同居するのを喜ぶ心持を「敵を愛す」なのだろう。

毒親に30年以上の人生を無駄にされたけど、神に立ち帰るなら、天国で同居できるのを喜ぶ。
30年どころか、まともに社会生活もできないぐらい人生を潰された。
まあ、本当に立ち帰るなら、現世でも同居するのを喜ぶ。
毒親の悪行は、とっくに赦している。
神に立ち帰っていないから、挨拶しないし、受け入れない。

この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。
そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。

ヨハネの手紙2 1章10節11節 新共同訳

出世などという、この世の欲望という無価値なモノを潰されたぐらいで、神に立ち帰る人という尊い価値を捨ててはならない。
この世の人生などという無価値なモノを台無しにされたぐらいで、神に立ち帰る人をないがしろにしてはならない。
この世の人生など、サタンの支配下の国々で過ごすだけのディストピアである。

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。

ルカ福音書 4章6節 新共同訳

「サタンの手下である偶像崇拝・悪魔崇拝の背教国家」のディストピアの中で天の主を探し求めるのが、私たちの試練である。

主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。
あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう。
しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。

申命記 4章27節から29節 新共同訳

日本なら、個人崇拝・太陽崇拝の偶像崇拝・悪魔崇拝の天皇制の中で、天の主を探し求めるのが試練である。
外国は行った事がないから判らない。

2、油断
被害者は悪くないという雰囲気を人々に洗脳して、油断させて、餌食にしやすくするのがサタン側の策略である。
被害者は悪くないという理屈には、何の根拠もない。情緒だけである。
むしろ、こういう風潮は、被害者を増やす。
人々を無防備にして餌食にしやすくするために、被害者は悪くないというムードを作るのだろう。
被害者は、良い悪いではなく、無防備だ。
被害者を良い悪いで語るのが既にズレている。間違っている。被害を増やすだけだ。

3、オカルト
共和政ローマはオカルトが禁止だった。
帝政ローマになると、オカルトは自由になった。

6島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。
7この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。

魔術師が地方総督と交際しているのだから、オカルトが自由になっている。
共和政ローマは、身内を大事にするから、オカルトの餌食にしないために、オカルトを禁止にする。
帝政ローマだと、一般人を捨て駒か何かと思い違いをしているから、敵地のオカルトに売り飛ばして、代わりに敵地の領土を貰う。

今の政治体制でも、自由の名の下でオカルトに民を売り飛ばして、何らかの見返りを得ているのだろう。
何の見返りかは判らない。
上のように、被害者は悪くないという空気感を広める事に協力させるのが見返りかも知れない。
サタンの支配下の国家が用意した自由主義なんか、悪魔崇拝やオカルトを広めるための口実でしかない。
本当の自由は、天の主を信じる事だけだ。

新約聖書:ヨハネによる福音書:8章:32節
また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

4、善ではない
平均は平均であって善ではない。
中立は中立であって善ではない。
常識は常識であって善ではない。
多数決は多数決であって善ではない。
慣習は慣習であって善ではない。

神は、神を求める者を受け入れる。
神を求めず、平均で満足する人間を神は天国へ受け入れるだろうか。

5、中立は危険
中立を気取ると、いつ自分に矛先が向くか判らない。
もし、加害者が「中立の奴が存在するから、まだまだ犯罪ができると思った」と発言したら、世間は中立者に矛先を向ける。
なぜ、犯罪者に自分の生殺与奪の権を握らせるのか。
売名や格好付けのために中立を気取るのは、やめた方が良い。
そうでなくても、コウモリ外交の話のように、中立は排除される。
発信者と言えども、ただの一般人なのだから、犯罪者を全力でぶん殴った方が良い。
誰かが中立にならないといけないなら、政府や裁判所が中立の役割をしてくれる。
政府や裁判所は、システム・制度として中立であるように構築されているから、公務員の中立は制度としての言動だから罪はない。
聖書でも制度に従えと書いてある。

新約聖書:ペテロの第一の手紙:2章:13節
あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、

6、中立の客
中立を気取るのが好きな客が存在するから、発信者も中立を気取るのだろうけど、危険だから止めた方が良い。
中立が危険というよりも、犯罪者に生殺与奪の権を握らせる生き方だから、止めておいた方が良い、という話だ。
対立している両者が犯罪者ではないなら、普通の議論だから、中立を気取るのは、安全ではないけど、危険というほどでもない。
しかし、片方が犯罪者なら、中立は危険である。
世の中には、中立をやりたいのではなくて、中立を気取りたいだけの人間が存在するから、そんな人間は矛先が自分に向くと逃げるから、そんな人間の気を引くために中立を表明するのは、自分一人だけが残される状況になる危険性がある。
中立を気取りたいだけで、戦う覚悟はないからだ。

7、立場の表明
極端な立場だろうが中立だろうが、その立場を守るために戦う覚悟が必要になる。
中立は、戦わなくて済むための立場ではない。
価値観は、保身の道具ではない。
価値観は、戦わなくて済むための道具ではない。
価値観を戦わないための道具と思っている人は、命を懸けられない。
俺は、何らかの価値観を表明したら、命を懸けて戦うべきと思うため、どうせ命を懸けるなら、天の主のために命を懸けて戦おうという意識になれたから、立ち帰るキッカケを掴めた。
価値観は楽をするための道具ではない。
価値観を楽をするための道具と思っている人は、多数派に靡きやすい。
多数派は楽ができると思っているから、楽をしたい人間は多数派に靡きやすい。
ただし、多数派でまとめて皆殺しにされる場合がある。今回の妙な液体の薬害のように。

8、努力しない自治体
自治体で、発展させない癖に発展させないと言わないのは詐欺だから、そういう詐欺をやった連中に対して日本中で怒りが爆発する。
経済成長したくないなら、経済成長したくないとハッキリと言えば、そこまで攻撃はされない。
しかし、経済成長の努力をしないと決めたのに、努力しないと言わないのは、詐欺だから日本中から袋叩きにされる。
態度をはっきりさせないと、こういう事になる。
ましてや、言う事とやる事が真逆だと、さらに激しく殴られる。
努力しようかどうかを悩みながら取り組んで、経済成長に失敗したなら、そこまで叩かれない。
これが人間の心情というモノだから、根回しがどうとか、そういう次元の話ではない。
立場を表明するのが嫌なら、嫌だとハッキリ言えば、あまり期待されなくなるから、それぐらいで済む。
「ええかっこしい」で見栄を張ると、後で袋叩きにされる。
あえて言うなら、その自治体は、自分に対する日本中からの評価を客観的に理解できていないとも言える。

俺だって、言う事とやる事が真逆な人間が居たら、批判したり、ぶん殴りたいと思う。
努力しないと決めておきながら、努力しないと言わない人間が居たら、どう思うかという話だ。
せめて努力したくないと言え。

努力しないのに、「努力しない立場」を表明しないで、しかも努力しようとする人を妨害していたら、そりゃ袋叩きにされる。
少なくとも、立場を表明しない人間が、立場を表明している人間に対して、難癖を付けたら、袋叩きにされる。

9、立場
立場を表明は大切だ。
立場を表明したら、その領域の価値観を守るために命を懸ける必要がある。
中立を気取ってしまうのも、サタン側の策略に騙されているからだ。
サタン側は、人々が突き詰めて考えないように洗脳しているから、フワフワした人間が多くなってしまうから、人々が悪いわけではない。
本当の神に気付いていないだけで、人々が悪いわけではない。
サタン側が突き詰めない洗脳をするのは、突き詰めると天の主へ立ち帰るところまで行き着くからだ。
だから、サタンは人々を地獄へ道連れにするために、神に気付かないように騙して、中途半端な立ち位置で自己満足して、突き詰めなくても生きていける社会を作る。

10、特に
特にこれと言った信仰がないなら、宗教施設を発信しない方がいい。
その宗教に対して命を差し出す覚悟もないなら、その宗教の施設・価値観・教条・文章・動画・画像を発信しない方が良い。
ファッションや気まぐれで出しても、基本的に良い事はない。
そんなので集まるような客は、極端に宗教にのめり込んでいる人間か、同じようなファッション感覚の人間である。あと、他の宗教の人は遠ざかるし、普通の人も遠ざかる。
自分と同じファッション感覚の人間を呼び込みたいなら、ワザワザ宗教施設なんか使わなくても呼び込める。

10月15日 補足 バジリスク毒のように、説明に必要性のあるモノなら、書く必要がある。

天の主の存在に気が付いて、占いの道具を全て捨てた人が存在するから、神と同じように忍耐強く立ち帰るのを待つ。

11、人生120年
聖書では、いつでも努力すれば天国へ入れるのだから、生き急ぐ必要はない。
現代社会みたいに20歳までに人生の全てが決まるような価値観では、ストレスが大きすぎるし、燃え尽きる。
残りの人生は、失敗したら空虚になったり、成功したら傲慢になったりする。
聖書でアブラムが神に召命されたのは75歳だし、モーセが役目を背負ったのは80歳である。
現代社会だと、努力すら許されない人間も存在する。障碍者とか、御曹司だと努力すると、仕事を横取りしていると陰口を叩かれたり、努力するのを嫌われたりする。
現代社会だと「お前は努力しろ」とか「お前は努力するな」とか、努力を命令されたり、努力を却下されたりする。
世間や他人を気にすると、他人の都合で努力するのも悪口を言われる。
また、思想などでも、対立すると、努力を貶してくる。現代社会で人間を相手に何かをすると、イチイチこういうメンドウ事になる。

神に立ち帰る努力なら、神が応えて、神の私有地である天国へ入れてくれる。
神に立ち帰る努力は何歳でもできる。

12、努力
生まれの境遇で9割が決まる現代社会で、努力も何もないけど、努力できるなら努力した方が良い。
だけど、努力しなくても、それは人の好みだから、何とも言いようがない。
ただし、出世欲の努力はしないとハッキリ言った方がいい。黙っていると隠ぺいと判断されるからだ。

そもそも、努力しないのは、神の存在に気付いていないからかもしれないから、努力しない人を咎める気にはならない。
神の存在に気付けば、神のための努力ならやる気が湧くタイプの人かもしれないからだ。
神の存在を隠ぺいする社会が悪いから、努力できないのだろう。
神に立ち帰る努力をするようになれば、自然と他の努力もするようになるかもしれない。
「この世で一生懸命に生きる事に価値がある」などと言う人間は、サタンの支配下の国々を何も判っていないから、こういう人間の発言は、取捨選別を厳選した方が良い。
唯一の幸せは、神に立ち帰る事だけである。
サタン側が用意する出世競争の社会で永遠に順調なのは有り得ないから、出世や成功が空しくなった時に天の主を求めればいい。

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