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人間は選択すると必ず間違える

サタン側が極端な二択で人々を操ったけど、人々が暴走し過ぎて、好き嫌いで勝手に他人を殺すようになったから、人権をでっち上げて、勝手に人殺しをしないようにした。
人々が暴走して勝手に人殺しをすると、神の信者を殺す危険性が高い。
サタン側は神の信者を殺したくない。
もし、神の信者が死んだら、神が怒って、ソドムとゴモラのようにこの世を滅ぼして、最後の裁きを前倒しにして、サタン側を地獄へ落として焼き続けるか魂を消すからだ。
神の信者を死なせないためのシステムの一部が司法の独立とか人権捏造なのだろう。

なぜ、政府は8割も接種させて何十万人も虐殺しているのに、通り魔1人が数人ほど殺したら徹底的に刑事捜査して懲罰をするのか。それは、通り魔は神の信者を殺す危険性が高いからだ。
予防接種なら、神の信者は注射しない。なぜなら、疫病は神の天罰だから、天罰を蹴散らす意図のある予防接種はしないからだ。

三権分立で法治主義を確立して、司法を独立機関にしたのは、人々が暴走して神の信者を殺すからだろう。
独裁者による圧政から守るために法治主義を作ったのではない。これはカバーストーリーだろう。
民主化するほど多数決を排除する。

好き嫌いに矮小化してミスリードする卑怯者。
好きなら味方しろ、嫌いなら器が小さい、と言ってどっちを選んでも擁護するように誘導する卑怯者。
好き嫌いの次元の問題ではないのに、好き嫌いに矮小化しようとする奴らは、こういう誘導をする。
世の中には、好き嫌いで語ってはいけない問題も存在する。
「犯罪者に対してどう思うか」を犯罪者の普段の仕事ぶりの好き嫌いで語ってはいけない。犯罪に対して、どれぐらいの量刑にするかとか、どれぐらい犯罪をしたのか、というのだけ語る必要がある。
犯罪者を好き嫌いで語るのは論点のすり替えである。

聖書では、好き嫌いはあまりいい意味で使われていない。
奴隷を好きなように処分するとか、娘を好きなように加害しても良いとか、善人を好きなようにあしらって迫害するとか、好きな料理で祝福を失い跡継ぎの権利を失うとか、好きな女で何かサムスンが失敗したのかもしれないし、諍い好きな配偶者とか、イエス・キリストを死刑にして好きなように殺したとか。

神の信者は自分の判断なんかに頼らないから騙されない。

何もしない勇気は必要だ。
ペーパーテストは絶対に何かを書かないといけないから、ペーパーテストばかりやっていると、何もしない勇気が衰えていく。
二択のどちらかを答えるのは、何もしない勇気がないからだ。
たいていの場合、二択になったら両方とも間違っているモノだ。
二択で片方が正しいなんて在り得ない。
二択で両方に一里あるなんて在り得ない。

逃げ癖の有る人は極端な二択をする。
有害な食べ物を食べるか食べないかという極端な二択へ逃げる。
安全な食べ物を探すという選択肢がない。
逃げ癖は怠け癖にもつながり、怠け癖があるから調べない。
逃げ癖や怠け癖は自己中へつながり、自己中だから自分の都合で勝手に結論をつけて、危険なモノを安全と決め付ける。
普段から自分が食べるモノについて考えないから、自分の体内へ注射するモノも考えないで薬害に遭う。
普段からやっていない事を緊急事態ではできない。
練習でもできない事は試合でもできない。
極端な二択しか頭にないと、三つ以上の道を自分で考える癖が付かない。
二つだけ探して満足して思考停止に陥る。

二択以上では、人間に正しい答えを選ぶ能力はない。
エヴァは食べてはいけないと言われていたのに、蛇が食べても死なないという選択肢を作ったら食べた。
神の「異民族皆殺し命令」に背いて逃げようとする。
人間は片方が正解の二択問題を出しても、必ず間違った答えを選ぶ。
だから、選択問題など考えてはいけない。
自分の勝手な考えで正しい答えを選ぶのではなく、聖書に基づいて正しい答えを探す必要がある。

聖書で選択を提示された人間が必ず失敗の方を選ぶのは、人間は選択問題で必ず失敗を選ぶと神が言っているのだろう。

選択肢が有ると人間は必ず間違えるから、サタン側は選択の自由をドンドン推し進めて選択肢を増やす。

結婚相手も、自分の好み、好き嫌いで選ぶと間違える。
父親同士で気が合うなら、子供同士でも気が合う。
父親同士で何十人か見繕って、自分でその中から選べば、自分好みの相手を見つけられる上に、間違えない。
サタン側は、父親が一人を選ぶという極端から、自分で選ぶという極端へ、人々を極端から極端へ揺さぶって混乱させて思考停止にする。

神の信者なら、聖書の通りにするし、神に好意を抱く者同士なら幸せになれる。
最終的に家族を捨てる事も同意するから、諍いにならない。
個人的な自分の好き嫌いで選ぶと、相手は口先や上辺だけで騙そうとするから、付き合いは失敗する。
相手が自分に優しいから好きという理由で選ぶと失敗する。
相手が神に敬虔な人間なら、善人だから、結婚も幸せになる。
相手が神に敬虔ではないなら、その相手が悪行をする危険性が極端に高くなるため、自分で常に監視をしないといけなくなる。
そして、非信者が監視をして懲罰したところで、相手が大したペナルティーではないと考えると、敵対しても何とも思わなくなる。
神の信者の人なら、こちらが神の信者だと、敵対すると神をも敵に回すと畏れて、敵対しない。
何度も書くけど、自分の個人的な好き嫌いで選ぶと、自分1人の自力で相手を統制しないといけなくなるから、つらい結婚生活になる。
何もしない勇気がないと、相手を統制しないと我慢ならないという考えに囚われてしまう。神に代わりに相手の統制をしてもらう考え方ができない。
個人的な好き嫌いで選ぶと、相手は口先だけでコントロールしようと企んでくる。相手が信者なら洗脳しにこないだろうけど、自分が非信者なのに、信者が結婚してくれるわけがない。自分が非信者なら、相手も非信者だ。

神の信者にとって神を怒らせるのは、地獄へ落とされて焼き続けるか魂を消すから恐ろしい。
非信者にとって、相手を怒らせても何も怖くない。逃げればいいだけだし、開き直ったところで何かできるわけでもない。何なら、人によっては政府が怒っても何も怖くない。

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