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言論統制と文章力 善悪の区別は不要 柔軟剤で思考停止 景気で軽挙妄動

1、言論統制と文章力
他人に自分と同じ生き方をさせて安心する人間が存在する。
他人の生き方を真似して安心する人間が存在する。

なぜ、そんな生き方で安心するのだろうか。
むしろ、他人が自分と同じ生き方をしていたら気持ち悪いと感じないのだろうか。
自我がないのだろうか。
サタン側がそういう自我のない生き方をするように洗脳しているのだろうか。

自分で動画を出せば良い。
他人に自分好みの話をさせようと難癖を付ける暇があったら、自分で動画を出せば良いじゃん。

自分に好都合な事だけ言わせるのは、言論統制なのが判っているのだろうか。
俺は警告はするけど、従わなければ従わない奴の責任になって地獄へ落ちるから、覚悟して逆らうように。

人気のある者に好都合な話をさせるのではなく、好都合な話をしている人を人気者にするように盛り立てればいい。

俺は思った通りの聖書解釈をしている人を見つけられなかったから、自分で書く事にした。
文章力がなくてかけないなら、勉強したらいい。
俺は色んな本を読んで、毎日100文字ずつ何でもいいから書いて、数年ぐらい続けたから、1000文字ぐらい毎日は書けるようになった。

満足できる話をする人は、相手が満足して気持ちよく金を払う様に仕向けているだけだから、良いように操られて搾取される。
相手が本心からモノを言っているかどうかなんて判らないから、タダの金儲けと割り切って、台本を読んでいるだけの危険性もある。
テレビみたいに商品を買う様に誘導したり、特定の会社や団体へのイメージを洗脳したり、人生を侵食されてしまう。

文章力の成長は、前も書いたけど、筋トレと同じで、書けば付く。
文章力と説得力は別だけど、聖書では警告するだけで良いと書いてあるから、説得力は要らない。

しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。

エゼキエル書 3:19

警告とは、一方的に言い捨てる事である。

説得力を習得するのは、特別な経験でもないと不可能だから、説得力がなくても書いて良いし、書くべきである。
特別な経験は、ほぼ生まれ付きの才能で決まるから、生まれ付きの才能で行動をしてもいいかいけないかを決めるのは、サタン側の洗脳である。
天の主は、やる気だけを求めている。
警告するだけなら、悪人に言い捨てるだけで良いから、誰でもできる。

2、善悪の区別は不要
善悪を決める必要性がない。
人間の勝手なルールによる善悪は、サタンの罠である。
神の掟による善悪だけを考えれば、思考の無駄にならない。
神の目に適うかどうかだけ考えたらいい。
決断の回数を無駄遣いさせるサタン側の罠だろう。
決断の回数をすり減らせば、神に立ち帰る決断も出来なくなるから、サタン側の思惑通りになってしまう。

3、柔軟剤で思考停止
もしかして、柔軟剤には思考停止の成分が入っているのだろうか。
近所の柔軟剤の臭いを嗅いだら、やろうと思っていた事を度忘れしてしまった。
思考停止になる成分は、書かないで勝手に入れているのだろう。

4、景気で軽挙妄動
日本が文明国だろうと周りが背教者なのは変わりがない。
景気が良かろうが悪かろうが、周りが背教者だから、イチイチ景気の良しあしで一喜一憂しない。
景気の良し悪しで自分の人生の良し悪しを連動させるから、景気で右往左往してしまって、本当にやるべき生き方ができなくなる。

神の信者なら、周りがほぼ全て背教者なのか判り切っているから、景気が良くなろうが悪くなろうが生活環境は大して変わらないため、景気の良し悪しで一喜一憂しない。

そもそも、神の信者は、景気が良かろうが悪かろうが質素な生活をするから、景気の良し悪しに興味がない。

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