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パウロは改心してない 聖書は名前ありで成長する登場人物は居ない パウロ無神経 他人の成長物語

1、成長しない
パウロが成長しない根拠は、目からうろこが落ちて目が見える元の状態に戻ったと書かれているからだ。
使徒言行録 9 | 新共同訳 聖書 | YouVersion (bible.com)

サウロの回心
すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」
すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、

使徒言行録 9章15節から18節 新共同訳

つまり、ファリサイ派として虐殺していた時代に戻っただけで、何の成長もしていないし、改心してない。
聖霊に満たされても、王のサウロも油を注がれて聖霊に満たされても、堕落して悪夢にさいなまれる。
洗礼を受けただけで、改心したなんて書いてない。
洗礼が改心の証拠にはならない。
俺はパウロが改心したと書いたこともあったかもしれないけど、撤回して、改心してないとハッキリと言っておく。
「元に戻った」というのは、絶対に成長しない暗喩(あんゆ)だろう。
つまり、ファリサイ派として虐殺していた性根から、絶対に変わらないという暗喩として書かれている。
神は、パウロを聖霊で満たすなんて言ってない。
もしくは、パウロは、聖霊に満たされたけど、成長はしなくて、サウロ王が神の放った悪霊でさいなまれたようになる運命なのだろう。
ただ、パウロを聖霊で満たすと言ったのは、アナニアの証言だから、神がどういう思惑でアナニアに、そういう事を言ったのか判らない。
もしかすると、アナニアが勘違いしただけという可能性だってある。
神はパウロを器と言ったけど、アナニアは聖霊で満たすと思い違いをしただけかもしれない。

厳密には、神が使徒ルカに命じて、使徒言行録というローマ帝国への宗教史の提出で書かせたから、使徒ルカが判断して、聖霊で満たすと書いたのかもしれない。

2、他人の成長
そもそも、聖書の登場人物で名前のある人は、基本的に成長しない。
堕落することはあっても成長しない。
名前の無い人は成長する場合がある。
名前が無くても成長しない場合もある。
なぜ、聖書は、名前ありで成長する人が存在しないのだろうか。
それは、聖書は、読者が成長するモノであって、他人の成長物語を楽しむモノではないからだ。
聖書は、信者が読んで、信者が成長するためのモノだ。
他人の成長物語で感動したからといって、自分が成長するわけではないから、神は聖書で名前ありの人物を成長させない。

3、パウロは改心してない
ファリサイ派として自己顕示欲を満たしていたけど、自称使徒で自己顕示欲を満たす手段を新しく発見しただけである。
目から鱗が落ちるとは、新しい発見をした意味もある。
新しく発見しただけでは、性根が成長した根拠にはならない。
宝箱を発見しただけでは、性根が治ったことにはならない。
新しい武器や手法を見つけただけでは、成長しない。
パウロは、目からうろこが落ちるとは、新しい手法を見つけたという意味もあるから、自己顕示欲を満たすための新しい武器を見つけただけで、性根が治った証拠にはならない。
今のパウロ教徒が、パウロはイエス・キリストの教えを広めているから改心したなどというのは、世迷言である。
布教活動が改心の証拠にはならない。
ファリサイ派だって、成果はともかく、布教活動してる。
ファリサイ派は、イエス・キリストに叱りつけられて「あなたがたは不幸だ」と言っている。
布教そのものは、偽装キリスト教団も、捻じ曲げながらやっている。
そもそもパウロは、ところどころ間違っているから、偽装キリスト教団と似たような布教の仕方をして、人々をウンザリさせて神から追い散らしている。
使徒ルカが、どういうつもりで宗教史にパウロの回心と書いたのかは判らない。
一応、ローマ帝国へ提出する宗教史だから、パウロが回心したということにしておかないと、使徒言行録が受理されないかもしれないからだろう。
なぜなら、パウロを洗脳したのは、ローマ帝国だからだ。
ファリサイ派は、ローマ帝国が作った確率があると、以前から書いた。
どんな国家でも、日本のような属国でもない限り、国内外の宗教組織にスパイを潜入させて、自国に都合が良いように捻じ曲げる。
使徒言行録は、ローマ帝国の受理という、ローマ帝国の都合を割り引いて解釈する必要がある。
だから、使徒言行録の9章でパウロの回心の部分は、パウロは改心してないと、俺は割り引いて解釈した。
聖書では、名前ありの登場人物で成長した人はいなくて、現状維持か、堕落のどちらかしかない。名前なしは成長するかも。
もちろん、言行録やパウロの手紙を、純粋な人なら疑わないで信じて読んでも特に問題はないけど、自己顕示欲のためにパウロを偶像崇拝するなら全肯定は危険だ。

4、手紙で自己採点
パウロが改心したなんてのは、手紙で自己採点しているだけだ。
自己採点が正しいわけがない。
パウロの手紙の自己採点以外で、パウロが成長したなんて書いている箇所は、どこにもない。
さっきも書いたように、聖書で名前のある人は、まず成長しない。
旧約でも聖霊に満たされた後で堕落した名前のある人物なんて、いくらでも居る。
神がパウロを聖霊で満たすと言わないで、アナニアが勝手に聖霊で満たすと言ったり、使徒ルカが勝手に聖霊で満たすと書いたのも、パウロは悪霊にさいなまれるという意味だろう。
聖霊も悪霊も神の分霊だったりするから、聖霊に満たされているのか、悪霊にさいなまれているのか、外から見ても区別しづらい。
神の分霊ではない悪霊も存在する。
成長する時は、聖霊に満たされた時ぐらいだ。
ヨナタンは聖霊と繋がって成長して、堕落しないまま、名誉の戦死した。
サムエル記上 14 | 新共同訳 聖書 | YouVersion (bible.com) 英雄的な行動
サムエル記上 18 | 新共同訳 聖書 | YouVersion (bible.com)

ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。

サムエル記上 18章1節 新共同訳

ダビデの親友のヨナタンは、ダビデに会う前に英雄的な働きをしたけど、ダビデに会った時に成長するために聖霊に満たされた。
油を注がれたダビデと魂が結びつきと書いてあるから、聖霊のあるダビデの魂と結びつけば、当然、神との結びつきになり、ヨナタンも聖霊に満たされる。
聖霊に満たされた後は、成長しない(現状維持)か、堕落するか、どちらかだ。
聖書で名前ありで登場する人物が、自力で成長することはない。
名前のある人物で成長しているように見える場面はあるけど、それはその人物が最初から、そういう能力と性根をしているだけで、発揮する機会が来ただけの話だ。
パウロは、文才が無く、読解力もないから、聖書を読んでも、聖書の名前ありの登場人物が成長しない事実を読み取れない。
パウロを妄信するパウロ教徒も、パウロの気質が感染するから、聖書を読んでも、聖書の名前ありの登場人物が成長しない事実を読み取れない。

5、成長物語
他人の成長で感動して、自分が成長している気分を味わってないで、自分が成長しよう。
他人が成長しようが所詮は他人事である。
アブラムは、75歳で神に召命されて旅立った。
聖書は、何歳でも遅いという事はない。
聖書は、何歳でも成長できる。
聖書は、信者が読んで、信者が成長するために書かれた書物である。

6、パウロ教の焼き直し
パウロ教の焼き直しみたいな論調をワザワザ増やさないで欲しい。
パウロ教と似たようなものがネットに書いてあることぐらい、少しは調べたら判るだろう。
何でワザワザ増やすのか。
自分の書きたいことがネットに書かれてないなら、書くのはまだ判るけど、似たようなものを増やすのは、いったい、どういう神経なのか。
パウロが無神経だから、パウロを妄信している人間も無神経が感染しているのだろうか。

7、謝れば
犯罪をするのは、謝れば済むと思っているから、何のデメリットも感じずに、犯罪してしまうのだろう。
謝って済む問題だろうかと思う。
俺も罪で生まれ付きで穢れているけど、そんなの神に対して謝って済む問題なのかと思うけど、聖書にも贖罪と和解となだめをするように書いているから、俺は和解となだめをする。
神は慈しみの神だから、謝れば許してくれるのだろう。
人に対して謝ったところで、許す人と許さない人が存在するから、人間なんか当てにするなと神は言っている。

多分、和解となだめは、聖書を読んで神を知り、神を信じて、神を崇拝する事だろう。
もしかしたら、他の方法かもしれないけど、それは自分で聖書を読んで自分で解釈して欲しい。

8、預言者や使徒とは立場が違う
預言者や使徒は、人々に注意喚起や幸せを知らせる必要があるから、言ったり書いたりするけど、パウロはただの信者だから、そんなことをする必要が無い。
わざわざ文章を増やして、しかも、ところどころ間違うぐらいなら、旧約を紹介するだけにしておけばいい。
旧約を相手に判りやすく説明するだけでいい。
旧約の預言者も、相手によって判りやすく説明するだけにして、自分のオリジナリティーは出さない。

使徒言行録 8 | 新共同訳 聖書 | YouVersion (bible.com)

使徒言行録の8章で、フィリポが走って言ってエチオピアの宦官に伝道するけど、こういう姿勢が求められている伝道者の姿なのだろう。
使徒言行録の9章でパウロの回心なんていうけど、回心の前の章の8章でこういうことを言うのは、フィリポとパウロを比較しているのだろう。
パウロは8章でも押し込み強盗みたいなことをしている。
使徒ルカは、本来の伝道者の姿を8章にフィリポやペトロやヨハネの事を書いて、パウロと比較しているのだろう。
パウロみたいに自分のオリジナリティーを出そうとしてややこしくするのと、フィリポのように走って解説しに行くのでは、どちらの方が伝道者として正しい姿なのかと、8章9章で比較しているのだろう。
オリジナリティーではなく、俺も解釈と解説だけにして、常に神の教えを基準にして解説するにするよう気を付けている。
できれば、一人一人が自分で聖書を読んで、自分で解釈した方が良い。
神は、フィリポが8章でこういう行動をするように、世界を動かして用意したのだろう。
エチオピアの宦官が馬車に乗っている様に仕向けたのが神である。
だから、8章9章の並び方は、神がそうなるように仕向けたから、この並び方には神の意図がある。

パウロ教徒は、ここまで考えない。
なぜなら、パウロ教徒は、ローマ帝国側の都合でモノを考えるからだ。
パウロ教徒は、パウロに仕えていて、ローマ帝国に仕えていて、神に仕える者ではない。

9、パウロ評
パウロは、気が利かない、でしゃばり。
気が利かないなら、前もってこちらが言えば良いだけ。
出しゃばりで余計な事を言うなら、こちらが信じなければ良いだけ。
要するに、パウロの本来の気質は、そこまで問題ではない。
階級社会や国家主義が無ければ、気が利かないやりすぎる実直な人間として、普通の信仰生活をしていただろう。
階級主義や国家主義が絡むと、身分差別したり、暴力気質になる。
国家主義者は暴力主義者。
気が利かない部分は、国家主義が絡むと無神経になる。

パウロは特権階級だから、スポーツにうつつを抜かしている暇がないかと思った。
しかし、なぜか、一着を競うとか言い出すから、単に才能が無かっただけか。
普通、スポーツが嫌いならデメリットを強調するはずだ。
俺がスポーツが嫌いだと仮定するなら、スポーツで健康を損なうとか、寿命が短くなるとか、そういうデメリットを強調する。
今でも、医者や官僚の家に生まれたら、スポーツにうつつを抜かさず勉強しなさいという話がある。
デメリットの強調ではなく、一着に成れるのは一人だけとか言い出すのは、要するにスポーツはやりたいけど諦めたのだろう。
なぜ諦めたのかは、スポーツの才能がないからだ。

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