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原罪論は反省文から反省を抜いた 神は苦しみに耐え人を創る 自分は神の気持ちがまだ判れない ペトロのパウロ評 通商破壊

1、苦しみに耐えながら作る神
本来ならエヴァとアダムが裏切った時点で、人間の魂は全て穢れているから、神は人間の魂を全て焼却処分にする事ができた。
しかし、天の主は慈しみの神だから、全ての魂に更生のチャンスを与えて、作ってくれた。

あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。

詩篇 139章13節 新共同訳

人間は、穢れた魂を持っているのに、神は穢れるモノを作っているのに、苦しいのを耐えて作ってくれた。
もし、自分が何かを作る場合に、穢れているのが判っているモノを作れるかどうか。
例えば、商品を作れば、客からは「その商品は穢れている」と言われる。
結婚する時は、「子供が穢れるから嫌だ」と言われる。
何か言うと、「穢れた魂から出る言葉は穢れている」と言われる。
肌が触れると「穢れが感染する」と言われる。
こんな状態で苦しいのに耐えながら仕事ができるか。
神は、忍耐と慈しみの神だから、苦しい気持ちに耐えながら作ってくれた。

2、原罪は対外
原罪という言い回しは、対外的なものである。
いきなり外の人間に対して、穢れていると言うのは、布教に繋がらないから、仕方なく、原罪と言う。
原罪でも正解である。
しかし、本当の意味で悔い改めに、つながるかどうか判らない。
どうにも、本気さを感じない言い回しが原罪論だ。
聖書でも、生まれて清くない者は居ない、と言っているから、全員が穢れていると言うのが当たり前である。

どうして、人が神の前に正しくありえよう。
どうして、女から生まれた者が清くありえよう。

ヨブ記 25章4節 新共同訳

女から生まれようが、人工子宮だろうが、どういう生まれ方だろうが、結局のところ穢れているから、女性蔑視に解釈するのは的外れである。
出産で血に塗れるから穢れるという的外れなモノではない。
エヴァとアダムが裏切ってる時点で、女以外から生まれても穢れていると思うけど、ヨブ記25章4節の解釈をどうするか。
ヨブ記25章はビルダドが発言しているけど、ビルダドは他の二人と一緒に、神について正しく語らなかったと叱られていたはずだ。
ヨブ記 42 | 新共同訳 聖書 | YouVersion (bible.com)

結び
主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。
「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。

ヨブ記 42章7節 新共同訳

要するに、ヨブの友人の3人は、正しい発言もあれば、間違った発言もあるという事だ。
みんな清く有り得ようか、というのは、正解なのか、不正解なのか、断定はされてないから判らない。

3、正しい人と付き合いがあっても
ヨブという正しい人と付き合いのある友人3人でも間違うという話でもある。
正しい人と付き合いがあるからと言って、付き合っている人も正しいとは限らないという話だ。
つまり、使徒ペトロと付き合いのある信者パウロだろうと、間違いはあるという話に、つながる。
信者パウロの発言も、使徒ペトロから難しいところがあると言われているから、パウロの発言は、正しいところもあれば、間違ったところもある。

また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。

ペトロの手紙2 3章15節16節 新共同訳

「主の忍耐深さを、救いと考えなさい」と書かれている。
神は、人に改心するチャンスを与えるために、苦しみに耐えて人を創ってくれる。

4、改心のチャンス
清くなろうと努力するのが大事である。
ヨブ記の3人のように間違っても反省すれば許される。
努力する者を許すのが神である。
歴代誌下 30 | 新共同訳 聖書 | YouVersion (bible.com)

民の大多数、エフライム、マナセ、イサカル、ゼブルンの多数の者が身を清めていなかった。それにもかかわらず、彼らは記されていることに違反して、過越のいけにえを食べたので、ヒゼキヤは彼らのために祈って言った。「恵み深い主よ、彼らをお赦しください。
彼らは聖所の清めの規定には従いませんでしたが、神、先祖の神、主を求めようと決意しているのです。」
主はヒゼキヤの祈りを聞き入れ、民をいやされた。

歴代誌下 30章18節から20節 新共同訳

「主を求めようと決意している」と書かれているから、努力しているため、許された。

5、ヨブ記とパウロ
なぜ神は、ヨブ記の三人の友人やパウロのように、正しい発言と、間違った発言を、混ぜるような人間を存在させるのか。
間違った発言をしても、改心すれば許されるという希望を人々に抱かせるためだろう。

6、普及のため
神が耐えて人間を創ってくれたのに、原罪という言い回しで続けていて、本当に本質へ近づけるのだろうか。
パウロの原罪論によって、神の教えそのものは広がったから、神がパウロを「器」と言った理由も判る。
器は、道具とか役者という意味に解釈した。
実際、いきなり「お前たちは穢れている」なんて言ったら、広まるモノも広まらない。
パウロのような優しい言い方で、とりあえず、何時代の大衆でも受け入れやすい形にして、聖書そのものが残り続けて、焚書されないように仕向けるのが神の計画なのだろう。
パウロ教が聖書で博愛や平和を語っているのに、焚書したら、頭おかしい扱いされるからだ。
聖書が普及すれば、あとは各個人が自主的に読んで、自主的に改心したらいいからだ。
聖書が普及しなければ、読みようがない。
俺は、口語体だと言い回しが判り辛かったりするから、色々な書き方のある聖書が有った方が助かる。

7、パウロの手紙
信者パウロの手紙は、神を信じながら読むなら、それなりに誰でも有用だけど、神を信じずパウロを信じながら読むと確実に失敗する。
パウロの手紙は過剰に厳しいから、純粋な人がそれなりに守れるなら、神のルールをほとんど全て守る性根があるだろう。
擦れた人なら、パウロの間違いが判るから、取捨選択して、必要な部分だけ取り出せる。

8、ペトロのパウロ評
使徒ペトロが信者パウロに対して、甘い評価をするのは、パウロは生存しているから、全否定するような事は、パウロが居たたまれなくなって、気がひけて言えないのだろうな。
生きてる人間が居たたまれなくなるような言い方は、基本的に控える。
あからさまに間違っている場合は、咎める。
パウロは、何の配慮もせずに使徒を貶すけど、こういうところがパウロは結婚できない原因なんだろうな。
店員に偉そうな態度をする人間みたいなのがパウロだからだ。
俺は、パウロは死んだ人間だから、普通に等身大の評価をする。
その評価で都合の悪い人間が居ようと「死んだ者の事は死んだ者に任せなさいと神は言っている」と聖書を引用する。

ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

マタイ福音書 8章21節22節 新共同訳

そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」

ルカ福音書 9章59節60節 新共同訳

死んだ者を悪く言われると不都合な生き方をするな。
ましてや、等身大の的確な評価で都合が悪くなるとか、そんな人生で甘んじるな。

9、神に会わなかった劣等感
パウロは、ファリサイ派として神の信者を殺す活動までしたのに、神であるイエス・キリストに会わなかったことがコンプレックスになってこじれて、使徒に対して劣等感から突っかかるのだろう。
信者を殺すという強い活動をしておきながら、普通の村人はイエス・キリストに会っているのに、自分は会ってない事実が、心の底からコンプレックスになっているのだろう。
多分、イエス・キリストは全ての村を回っているらしいから、パウロだけがイエス・キリストを見た事もないかもしれない。
別に、見なくても信じればいいだろうに。
見なくても信じる者は幸いであると神が言っているのに。

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネ福音書 20章29節 新共同訳

10、原罪論を被害者の気持ちで例え
原罪論は、反省文から反省を抜いた文章だから、事実関係は正しくても、反省していない。
そもそも、パウロは反省しないから、パウロが考えた原罪論は、反省の要素が無いのは当たり前だ。
多分、パウロが反省しないのと、パウロがイエス・キリストに会えなかったのは、何らかの意味があるのだと思うけど、それが何かまだ判らない。
神はパウロを「器」として選んで道具や演者として使う。

エヴァとアダムが裏切って神を未亡人にしたと書いたけど、これを例えにすると、遺族に対する犯罪者の態度で原罪論を考えられる。
原罪を言っている人みたいに、犯罪の加害者が、被害者に対して、そういう原罪論みたいな言い方をしていたら、本当に反省しているのか、という話に成る。
そんな簡単に被害者の気持ちが判るモノなのか。
反省文で自分の家族を殺されたら悲しいと書く加害者が存在するけど、被害者と加害者では、家族の人間関係は全く違うだろう。
被害者の遺族は家族が大事でも、加害者の方は自分の家族が大事とは思っていないかも知れない。
そんな状況で、自分が家族を失ったらと反省した振りをしても、本当に失った悲しみが判るのか。
俺だったら、もし自分の毒親が殺されたら、むしろ清々する。
加害者になるような人間は、たいていは親がおかしいから、そんなのと一緒にされたら被害者遺族も怒るだろう。
こんな簡単な事も判らないで、本当に神の怒りや悲しみや苦しみが判るのだろうか。俺は、未だに良く判っていない。
そもそも、神のような力とか持ってないから、自分の創ったモノが勝手に穢れるのが、どういう感覚なのか、良く判らないから、安易に、どういう気持ちなのか判るような振りは出来ない。
犯罪の加害者の立場になったとしても、安易に被害者の気持ちが判るなど言えない。
自分が被害者や遺族だとして、加害者が「原罪論みたいな態度」をしたら、「本当に反省しているのか」と疑う。

当事者の被害者からしてみたら、原罪論のような態度が反省していると感じられるかどうか、という話だ。
自分の気持ちですら、なかなか判らないのに、軽々しく自分以外の気持ちが判るなんて言えない。
原罪論は、状況や事実関係を知るための基本情報でしかない。
自分がどんな悪行をしたのか、という基本情報でしかない。
その基本情報から、各人が自分で神と和解やなだめをする必要がある。

11、攻撃能力
話は急に変わるけど、色々と読んでいて思った事。
中国共産党は、自国民や兵士がどれだけ死んでも抑圧できるのに、敵基地攻撃が出来て何の意味があるのだろうか。
敵の軍艦を攻撃する能力を強化して、何の意味があるのだろうか。
普通に、海上貿易路のシーレーンを封鎖するために、潜水艦を何百隻もそろえて、機雷を何億基も敷設できる能力を作って、資源の面から締め上げて、中国国内で中国共産党軍に反乱を起こさせる方が、よほど効果的だ。
通商破壊は、資源を大量に必要として、自国で賄えない国家に対して、かなり有効な手段である。
通商破壊 - 検索 (bing.com)
何が何でも攻撃能力を保有しようとするのは、軍国になりたいだけではないのか。国家主義者の走狗ではないか。
国家主義者は、愛国とか国防を言いながら、権力を握りたいだけ。
自国民を弾圧する軍事力が欲しいだけだろう。
これだから、国家主義者は嫌いなんだよ。
神も国家主義者を嫌う。
王が、神と民の間に入って邪魔するのを嫌う。
王を求める罪。

裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。

サムエル記上 8章6節 新共同訳

旧約聖書:サムエル記上:12章:17節
きょうは小麦刈の時ではないか。わたしは主に呼ばわるであろう。そのとき主は雷と雨を下して、あなたがたが求めて、主の前に犯したの大いなることを見させ、また知らせられるであろう」。
旧約聖書:サムエル記上:12章:19節
民はみなサムエルに言った、「しもべらのために、あなたの神、主に祈って、われわれの死なないようにしてください。われわれは、もろもろのを犯した上に、また求めて、悪を加えました」。

王だろうと、国家だろうと、神と民の間に入って、邪魔をする存在は、神は全て忌み嫌う。

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