見出し画像

自分で自分を裁けば、全ての他人を裁ける

1、犯罪組織
犯罪集団は、賄賂や脅迫を使う。
芸能事務所も、賄賂が通用しないと脅迫をする。ハニトラもする。
こういうのを犯罪組織という。
犯罪組織が芸能事務所を経営しているだけ。
所詮は犯罪集団だから、罪の償い方など判らないのである。
しかも長引かせて傷口を開かせる。
犯罪をしたらどうなるのか判るなら、そもそも犯罪なんかしない。

2、自業自得
日本人は、こういう犯罪組織に対して甘いから、犯罪組織が幅を利かせて、生活がドンドン苦しくなっていく。
麻薬マフィアがやりたい放題をして、生活が良くなるわけない。
自分で自分の首を絞めているから苦しくなるのに、なぜか政治のせいにする。

3、自罰
色んな性格の人が存在するのは、神の恵み。
何事も最初に気が付くのは、自罰的な人。
動物愛護でも、動物に対する虐待が最初に注意喚起として出てくるのは、自罰的な人が気付きやすいからだ。
安い商品で得をする人は、最初に動物愛護をやろうとしない。
自罰的ではない人は、最初に気が付かない。
自罰的な人をモデルにして反省するチャンスがある。
一種類の性格の人間しか居なければ、サタンは簡単に人々を騙して地獄へ道連れできている。
色んな性格の人が存在するから、サタン側が攻めあぐねる壁になる。

4、スタートライン
自分の悪心がこの世の全ての悪行の出発点だと自覚して、反省して、ようやく物事に口を出すためのスタートラインに立てる。
自分以外を悪者にして気持ちよくなっているような人間ほど、偉そうにモノを言う。
俺も含めてだけど、まずは、自分自身も悪者だと自覚した方が良い。
強い者を叩いているというけど、自分以外を悪者にして気持ちよくなっているだけで、まともな生き方ではない。
強い者を叩いているとか言っているけど、安全なところから叩いているだけで、自分の悪心を断罪しない臆病者である。
せめて、自分の悪心を裁いてから、他人の事に口出しをしろ。

5、自分を裁く
自分を裁けば、全ての人を裁いたことになる。
だから、人を裁く必要はない。
聖書で他人を裁くなと書いているのは、自分を裁けという意味だ。
自分は人間だから、他人も人間だから、自分を裁けば自動的に他人を裁ける。

この場合の裁くなとは、どういうモノが対象なのか。
多分、悪心だと思う。
他人の悪心を裁かないで、自分の悪心を裁けば、自動的に全ての他人の悪心を裁ける。

この世の全ての悪行は、俺も含めて人間の悪心に原因がある。
この世の命令系統は、神➝人間➝サタン➝闇の勢力➝現地権力者の順番になっている。
神は間違えないから、人間の悪心をサタンが読んで闇の勢力に命令して、現地権力者が悪行を実行する。
だから、人間が悪心を改めれば、この世の悪行は全て消える。
俺の悪心も当然ながら、この世の全ての悪行の原因になるから、反省して悪心を消滅させる努力をしている。

6、臆病
聖書で臆病者を戦争に参加させないで、家に帰らせろと言うのは、臆病な人間は邪魔だからだ。
では、具体的な臆病とは何か。
それは、自分で自分の悪心を裁かない事である。
そういう反省できない臆病者は、邪魔になるから戦いの場から、家に帰らせろという意味だ。
臆病者は、どのような種類の戦いでも邪魔になるから、家に帰らせろ。
自分で自分の悪心を裁くのが本当の勇気である。

7、裁く時間
他人を裁く人間は、何十億人の人間を一人ずつ全て裁くつもりか。
ずいぶん、気の長い話だ。
解決する前に人生が終わる。
それとも、誰を裁くのか選り好みするつもりか。
そういうのが臆病という。

8、悪魔を
ハロウィンやクリスマスなどの悪魔崇拝のイベントへ行く人が増えると、何も判っていないと判断されて、今回の妙な液体の注射による大虐殺が開始される。
何も判っていないから、薬害で虐殺しても、真実に気が付くだけの知能や行動力がないと思われて、脅威を感じない。
サタン側を蹴散らすには、天の主を信じて、聖書を自分で読んで、自分で解釈して、義人になればいいだけ。
神を信じれば、悪魔は逃げる。

新約聖書:ヤコブの手紙:4章:7節
そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。

神に従い、天の主を信じて、サタンに対抗すれば、サタンは逃げる。

9、直感
強者を叩いていると言っている発信者を見て、何か直感的に気持ち悪く感じた。
実際、その直感は正しかった。
やはり、直感は九割以上は正しい。
色々と、その発信者のどこが気持ち悪いのか、考えていたけど、やっぱり「安全なところから自分以外を悪者にして気持ちよくなっている臆病者」という部分が気持ち悪かったのが判った。
その発信者のどこが気持ち悪いのか。
表現の仕方か。
センスか。
偉そうな態度か。
自己顕示欲か。
問題提起で嬉しそうな表情をするところか。
議題が安定しないで片っ端から口出しをしているところか。
被害者が居るのに嬉しそうにして、しかも続けない。
嬉しいなら続けろ。気が重くて続けられないなら、嬉しそうにするなと思った。
自分で自分を裁けない臆病者が居ると、気持ち悪くて戦う気が失せるから、士気をくじくから邪魔なので家に帰らせるのが聖書なのだろう。
こういうのを色々と考えてた。

10、おがくず
聖書に書いている「裁くな」というのは、他人の目のおがくずを注意して、自分の目の丸太に全く注意しないのを咎めている。
他人の悪心を糾弾する前に、自分の悪心を糾弾しろという意味でもある。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

マタイ福音書 7章1節から5節 新共同訳

自分の悪心を裁けば、自動的に他人の悪心を裁く結果になる、という意味になる。
とりあえず、自分の悪心が原因で全ての悪行が発生しているのは判ったけど、具体的に自分の悪心のどの部分がこの世の悪行の呼び水になっているのか、具体的な因果関係が朧気(おぼろげ)なのが困っている状態だ。
とりあえず、自分の悪心が原因だと思いながら過ごしておけば、そのうち気付くだろうと思いながら考えている。
こんなことで大丈夫だろうか心配になりながら考えている。

過去の犯罪っぽいモノを警察や人に相談しても、あまり手ごたえが感じられない結果になった。
どうして、この程度の反省すらできない人間が多いのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?