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魂を売るとは 将軍ナアマンと百人隊長とローマ帝国の文化 日本語の言語力と仲間を売れ

1、魂を売るとは
サタン側が用意したエセ学問を崇拝するとサタンに魂を売った事になる。
聖書以外を信じたらサタンに魂を売った事になる。
天の主以外を崇拝したらサタンに魂を売った事になる。
悪魔の像にひれ伏したらサタンに魂を売った事になると思っているみたいだけど、将軍ナアマンは悪魔の像に「上辺だけ」ひれ伏しても魂を売った事にはならなかった。「崇拝」したら魂を売った事になる。

ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。
ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」
エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。

列王記下 5章17節から19節 新共同訳

「焼き尽くす献げ物」や「他のいけにえ」とは、この場面でどういう意味になるのかは、よく判らない。
しかし、ひれ伏すだけでは崇拝した事にはならないのだろうか。
多分、誰でも罪を犯すと聖書にあるから、何か一つだけでも罪を犯すのは、ある事だろう。

2、将軍ナアマンと百人隊長とローマ帝国の文化
将軍ナアマンは活躍して出世したから、確実に殺人をしている。
アブラムの召命からイエス・キリストの復活までの「旧約時代」なら、軍事行動で殺人しても神に立ち帰れば赦されて天国へ入れる。
イエス・キリストの復活以降の「新約時代」だと軍事行動で殺人したら、赦されないだろう。個人的な殺人だと、イエス・キリストの隣で殺人犯が磔刑になっても立ち帰れば赦されている。
旧約と新約の境目が、どの時点か判り辛いから、殺人犯でも赦されるかもしれない。
軍事行動で殺人するのと個人で殺人するのでは、意味が違うのだろう。
新約でも百人隊長の部下が治療されたけど、百人隊長だと殺人したかどうかは確定が難しい。敵兵を殺した場合だけ出世できるなら、百人隊長も殺人はしていると確定できる。
将軍ナアマンは活躍したと書いてあるから、確実に殺人している。

アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。

列王記下 5:1

「勝利を与えられた」と書いてあるから、確実に戦争で殺人をしている。

マタイによる福音書 8:8
すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

ルカ福音書 7章6節7節 新共同訳
そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。

屋根の下に迎えるのがふさわしくない、というのは、軍事行動で殺人をしたからなのか、軍人の立場が良くないからなのか判らない。

長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」

ルカ福音書 7章4節5節 新共同訳

ユダヤの長老たちは百人隊長をふさわしい者だと言ったけど、本人は自分はふさわしくないと言った。謙遜したのだろうか。傲慢にならなかった。
会堂を建てるとすると、相当な財力が必要だから、百人隊長の収入でそんな財力があるだろうか。
暴力で脅して金を搔き集めたか、戦争で戦利品を略奪しまくったか。
ローマ帝国時代のユダヤ人の会堂がどのようなモノか判らないから、何とも言いようがないけど。
最近、発見されたフコックの会堂だと、20メートル四方の建物で、モザイク画がたくさんあったらしいから、かなりの財力が必要である。
百人隊長がカファルナウムで作った会堂かどうかは判らないけど、かファルナウムの会堂の床はモザイク画ではなく、敷石を使っている。
ただ、敷石でも相当に豪勢である。たいてい家の中の地面は土がむき出しだったりする。日本家屋で言えば、土間みたいなものだ。
靴を履いて家の中に入り、ベッドで寝る時だけ靴を脱ぐ生活をする。だから、たいていはサンダルで生活をする。革靴みたいなのだと蒸れる。古代ローマの人たちの服飾を見るとサンダルなのは、そういう意味だ。
元老院の議員だと革靴みたいなのを履いていたりする。
元老院の議員だと自宅は敷石だから、革靴を脱いで上がれるため、サンダルを履く必要がないのだろう。それがステータスとして外で見せつける事ができる。
現代人がハイソサエティな職業だと革靴を履くのは、ローマ帝国の時代の価値観の名残なのだろうか。

木製や土間だと残らないから、存在しなかったと思ってしまう。
木製だと腐ってなくなるし、土間だと他の土の地面と見分けが付かないから、建築で掘った穴で判断するしかない。
石製なら残るため、石製だけが残っているから、ローマ帝国の建築は全て石製だったと思いがちである。
しかし、実際は木製の建物は多い。

この百人隊長がどのような会堂を作ったのか判らないけど、長老たちがふさわしいと言うのだから、相当に豪勢な作りなのだろう。
社会の中でも高位に位置する者が、ある人をふさわしい人と褒めるのだから、相当に多大な貢献をする必要がある。

3、日本語の言語力と仲間を売れ
昔は、複数人で犯罪をすると罪が分散された。これは、実質的に仲間を売っている司法取引である。
昔は、科学捜査も監視カメラも未熟だったから、犯罪者の集団に仲間を売らせる事で取り締まりをしていた。
複数人の犯罪だと懲役の期間が短くなるから、仲間を売れば罪が軽くなるという事である。
仲間を売れば自分の刑期が短くなるから、実質的に「仲間を売れ」と言っているのと同じだ。
司法取引も仲間を売らせる。
良いか悪いかはともかく、報道で「仲間を売っている」と説明しない。
日本語の不備なのか特徴なのか判らないけど、日本語は言葉を変えると本質が判らなくなる。

しかし、日本語だと「仲間を売った」という文言がないと仲間を売った事にならない特徴がある。
マスコミは昔から警察と協力しているから、「仲間を売った」と報道しなかった。だから、視聴者は「犯罪者が仲間を売った」という認識ができなかった。これが日本語である。言われなければ判らないのが日本語である。
仲間を売るのだから裏切り者だけど、犯罪者が仲間を売っても、世間は仲間を売ったと認識できないのは、仲間を売ったと報道しないからだ。
報道していないから真実ではないという認識しかない。
仲間を売ったと報道しないのは、大衆が「仲間を売るのはけしからん」となると、犯罪者が仲間を売らなくなってしまい、犯罪の全貌が明らかにならなくなるからだ。

「チクる」とか言葉は有るけど、チクられたからといって「仲間を売った」という認識を持ちづらいのが日本語である。

行動や現象に対して自分で本質を判断するのではなくて、他人が言った事が真実になるのが日本語なのだろう。

日本語の欠点というのがあるらしい。
論理的な能力が欠落しているらしい。
ただ、俺からしてみたら、天の主への信仰心がないから、論理力がないだけだと思う。
日本語は、天の主への信仰心が加われば、論理の機能が十分に備わる。

日本語の話者は、互いに自分勝手なルールで空気を読むとズレる。
天の主というルールを互いに信仰して、聖書のルールに基づいて話を理解したらズレなくなって通じる。
日本語単体では機能しなくても、信仰心が加われば機能する。

日本語の話者ではなくても、信仰心のない人間は、目の前の現象について正確に判断できないと思う。

英語に論理力が有るかというと、比較的マシなだけ。
英語だと世界を侵略する力が他の言語に対して比較的あるから、列強になれただけであって、外国人が英語を習得するとイギリスは勝てなくなって、今のように衰退する。
英語は他の言語に比べて比較的で論理力があるだけだから、絶対的な力はない。

カトリックやプロテスタントや正教は偽装キリスト教団でサタンの手先だから、本物を真似した偽物だから、それなりに本物の力があるだけで、実際は悪魔崇拝と同じで絶対的な力はない。
そのため、キリストの教えではない宗教との格差は、そこまで大きくない。

言語同士で比べるからおかしくなる。
その話者が神への信仰心があるかどうかで判断する必要がある。

  • 日本語で信仰心がある。

  • 日本語で信仰心がない。

  • 日本語以外で信仰心がある。

  • 日本語以外で信仰心がない。

この四つを比較する必要がある。
言語だけで比べる言語学は、やはりエセ学問である。
エセ学問でも100%嘘を吐いているわけではないから、厄介だ。
詐欺師は真実の中に嘘を混ぜで騙す。
詐欺師は99%の真実の中に1%の嘘を混ぜて騙す。

信仰心がないと、自分で状況を判断できないから、集合知で判断しようとする。多数決で判断しようとする。
自分で状況を判断したらいいだけなのに、多数決に頼る。
その多数も同じように自分で判断できなかったら、どうするつもりだろうか。
その多数の判断力が異常で間違いだらけだったら、どうするつもりだろうか。

バベルで人々の言語を分裂させたのだから、言語の優劣はない。
また、イエス・キリストが復活した後で信者たちが全ての外国語を神から授けられたけど、特にどの言語が優秀だとかは言われていない。
何らかの特徴や特色があるから、優劣があるように見える。
論理力の観点から見れば欠点があっても、感受性の観点から見れば優秀だったりする。
そして、神を信仰したら、言語の優劣もなくなる。
神の信者なら、他の信者の言語が違っても差別しないで平等に扱うため、言語による有利不利はない。
言語の違いによる特徴の違いは、神へ貢献する方向性が別々にするためだろう。いろんな形の貢献をするように、神が人々の言語を別々にした。

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