見出し画像

『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[119]ナオト、ウリエルと会う

第5章 モンゴル高原
第8節 モンゴル高原に住むヨーゼフの子、ウリエル
 
[119] ■4話 ナオト、ウリエルと会う
 ヨーゼフがくれた絵地図にある通りの大きな岩だった。上に石がいくつも載っている。
「あれは積石オボ―だ」
 と、エレグゼンが言った。
 ――オボー? あっ、入り江の浜でドルジが話していた積石オボーか……。
 ウリエルの家はその岩の陰の小高いところにあった。フヨの入り江のヨーゼフの蔵と似た作りの木の家だった。石を積み、その上に横にした丸太が組み上げてある。
 家の裏から走ってきた黒い犬が尾を振りながらエレグゼンに飛びついた。その頭をなでながら、
「ウーリー!」
 と、大きな声で呼んで木の扉を開けると、すぐにウリエルが顔を見せた。
「おおっ、エレグゼン!」
 ウリエルは、ヒダカびとのナオトがモンゴル高原に向かったことは知っていた。父の従弟いとこだというアルマトゥの商人が立ち寄り、隊商とともに近くの原で一晩過ごしていったときに話に出たという。
 ――セターレだ……。そうか、ここまで来ていたのか。
 しかし、そのナオトが、まさかメナヒムのもとにいてエレグゼンとともにこの家を訪れようとは、思いもよらなかったようだ。
 ナオトは一通り挨拶をし、戸口に現れたウリエルの妻に、どうにか蓋を開けずにここまで辿り着いた蜂蜜をヨーゼフからだと手渡し、「それと、これは吾れが作りました」と言って大きな木製の鉢を差し出した。石を使ってよく磨き込んである。ウリエルの妻は、思わず嬉しそうな顔を見せた。
 その後に、やはりヨーゼフから託されたヒツジの薄革の切れ端を渡すと、ウリエルはそれを読み通して顔を上げ、笑いながらナオトの腕を二度ぽんぽんと叩いた。
「どこかで会ったか?」
「いや、会ったことはないと思います」
 ナオトがソグド語で答えた。
「確かに、前に会ったような気がするが……」
 ――父親のヨーゼフと同じように、叔父のダーリオと見間違えているのだろう。
 ナオトはそう思ったが、黙っていた。そして、ヨーゼフの言っていたことを思い出していた。
「犬の名前は何といいます?」
 その一言で、ウリエルの顔にぱあっとみが広がった。かたわらでエレグゼンがその犬と戯れている。
 エレグゼンとウリエルがいろいろと語り合っているところに、「おなかいたでしょ」と言って、ウリエルの妻が生の凝乳ジューヘ――生クリーム――を持ってきた。泡立てて、ナオトが贈った鉢に盛ってある。
「この鉢へのお返しです」
 と、ナオトの方を見て笑いながら言った。その陰にちらっと、エレグゼンに向かって手を振る可愛らしい娘が見えた。
「吾れはこれが好物だった。いつも心待ちにしていた」
 エレグゼンが指ですくって舐めながら、
「ウリエル。これを叔父メナヒムから預かってきた」
 と革の切れ端を渡すと、受け取りながらウリエルが言った。
「そういえば、ナオト、先刻さっき話したアルマトゥの商人がお前に渡すようにと置いていったものがある。父に頼まれて、ここに来るまでの間に字を刻んだそうだ。父は字を彫るにはもう歳だからな」
「セターレはやはりここを訪れたのですね……!」
 文字が彫られた木片だった。匈奴の国できっとウリエルに会うというのと同じように、ヨーゼフ爺さんはまるで「ナオトはこの文字を読めるようになる」と見通していたかのようだった。
 ――これで二度目だ。犬のことを入れれば三度目か……。
 しかし、ナオトにはまだ読めない。
「何と書いてありますか?」
 と、ウリエルに尋ねた。
「これはソグド語ではなくヘブライのようだ。『ダーリオの袖なしの背』と読める。残りは吾れにははっきりとは読めないが、サマルカンドとあるので土地と人の名だろう。ナオト、これでわかるか?」
「ダーリオの袖なしはわかりますが、他はわかりません。どういう意味だろう?」

第9節1話[120]へ
前の話[118]に戻る

目次へ