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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[118]ウリエルの母

第5章 モンゴル高原
第8節 モンゴル高原に住むヨーゼフの子、ウリエル
 
[118] ■3話 ウリエルの母
 二人でやってみるかとなったとき、まずは昔からの取引相手がいるフヨのヒンガン山脈の東にある大きな川の向こう岸までと決めてラクダに乗った。そして、そのフヨの村でウリエルの母となる娘に再会した。
 娘と結ばれたヨーゼフはフヨの地に住むと決めた。家族での暮らしがしてみたかったのだそうだ。
 兄が元気を取り戻したと喜んだダーリオは、一人でヒダカを探してみると言って別れ、東に向かった。海の向こうに島があるのを見届け、その海を越える方途みちを見つけたら戻るという約束だった。
 フヨの暮らしに慣れてくると、ヨーゼフは商売をはじめた。『父はそういう性分たちなのだ。たぶん、自分も同じだ』と、ウリエルが吾れに言った。
 ヨーゼフはフヨの穀類から酒を造って売った。その酒をモンゴルまで運んで馬を手に入れたこともある。そのモンゴル馬をヨーゼフはなんと鮮卑に売ったという。鮮卑は匈奴と争うことがあるのだぞ……。
 それまで黙って聞いていたナオトが思わず口にした。
「それにしても、ソグド商人というのは面白い人たちだなぁ……」
「次の年の秋口に男の子が生まれた。ウリエルだ。ところが、冬がようやく去って花が咲きはじめる頃にダーリオが現れた。そしてヨーゼフと二人で、『一年後に戻る』と言い残してフヨの村を去った。
 ウリエルが、母が口にしたことでよく覚えているのは、『お前がようやく父親の真似をして、作り笑いを見せるようになった頃にお前の父は去った』、『夫はもうここには戻らない』という繰り言だという。
 しかしその五か月後、ヨーゼフは川近くのフヨの村に舞い戻った。
 そうしたことが、前後五回、九年に及んだ。おそらくそのたびに、ウリエルの母は同じ思いを抱いたのだろう。
 十年経った頃に、ヒダカを一目見るという夢を叶えられなかったヨーゼフは妻と九歳のウリエルを連れてモンゴル高原に移った。
 しかし、ヨーゼフ一家三人のモンゴルでの暮らしはそう長くは続かなかった。ウリエルが十五のときに父と一緒に初めて商いの旅に出て、戻ってみると母はいなくなっていた。夫が家を空けてばかりなのをきらい、これからは息子までいなくなると思い詰めて、足の悪い匈奴の男の妻に息子を頼むと言い置いて去ったのだ。
 その後、ヨーゼフはフヨの海沿いの地に移ると決めるのだが、その少し前に、仕入れた織物をウリエルが近くの川で洗っていると、突然、助けを呼ぶ声が聞こえた。川にはまって溺れ掛けている匈奴の男の子を見つけ、かろうじて石と石の間から足を外して救い上げた」
「それがお前だな……」
「ヨーゼフから聞いたのか?」
「ああ」
「吾れは、いま訪ねようとしているウリエルとそうやって出会った。もう、十五年も前のことだ。
 ウリエルは匈奴の西にある岩と小石と砂の沙漠ゴビを知っている。砂混じりの嵐の中を東に移ってきたばかりの子には、緑の中を音を立てて流れる川は珍しい。泳げもしないのに川に入って溺れ掛けたのだなと思い、いつも一人で過ごしていた自分の幼い頃と引き比べて、ウリエルは吾れをかわいそうだと思ったという。
 そのときに見せた目と顔を吾れは今でも覚えている」
「……」
「伯父のメナヒムは吾れを兵士にはしたくなかったのだと思う。それで、ケルレン川の岸にやって来て二年目の九月に、吾れは冬の間だけウリエルの家に預けられることになった。
 夏の牧地では部族とともに過ごした。九月になって部族が南に移るとき、吾れはウリエルのもとに預けられる。そのような暮らしを吾れは十五の夏を迎えるまで続けた」
「……」
「はじめ見たときには眠ってばかりだったウリエルの赤子あかごが、ある日突然に、母を呼んだ。しばらくすると、母の言葉と父のソグド語を同じ日にしゃべりはじめた。
 吾れはその子が育っていくのをずっとそばで見ながら、ソグド語を覚えた。メナヒム伯父は、商いをするウリエルの近くに吾れを置いて、商人のように考え、読み書きすることを覚えさせようとしたのだと思う」
 いま、ナオトが訪ねようとしているのは、そのエレグゼンの冬の父親、ウリエルだった。

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