見出し画像

『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[073]フヨで授かった子

 第3章 羌族のドルジ
第6節 ヨーゼフ兄弟が目指した東の地

[073] ■2話 フヨで授かった子
「わしは、モンゴル高原から真っすぐにヒダカの見える海に向かったわけではない……」
「えっ、どういうことですか?」
「ヒダカを探してフヨに向かう前、しばらくの間、わしは商いを止めていた。どうしてもおのれの子が欲しかった。家族一緒の暮らしがしてみたいと、わしはモンゴル高原の東の外れに移って住みはじめたのだ。
 その地で初めての夏を過ごそうとしていたわしのもとにダーリオが現れた。ハミルでの商いを人に譲ってはるばるやって来たダーリオにどうしてもと誘われて、気は進まなかったのだが、海を目指して旅に出た。
 まずは、昔からの取引相手がいるフヨのヒンガン山脈の東の麓にある大きな川のほとりまで行ってみようと話し合ってラクダに乗った。
 そのフヨの川沿いの村で、わしはウリエルの母となる娘と再会した。以前から知る村長むらおさに間に入ってもらって結ばれ、結局、わしはその村に住むと決めた。
 わしが元気を取り戻したと喜んだダーリオは、『吾れはこのまま東のそのを探してみる』と言って去り、一人、旅を続けた。ダーリオはいつの間にか一人前の男になっていたのだ。海の向こうに島があるのを見届け、その海を渡る方途みちを見つけたら戻るという約束だった。

 フヨでの暮らしに慣れてくると、わしは何をとよく考えるでもなく、商いをはじめた。その辺りで手に入る穀類を使って酒を造り、フヨで売った。あるときにはその酒をモンゴル高原までラクダに積んで行って交換に駄馬だばを手に入れ、何頭も連れ帰ってフヨで売り捌いた。
 川の西岸からヒンガン山脈にかけては鮮卑センピが住んでいて、モンゴルの馬だと気付くと喜んできんと交換してくれた。鮮卑の騎馬隊の隊長からは『もっと連れて来い』と何度も言われた。そうしてわしは鮮卑にも出入りするようになった」
「ヨーゼフ、センピという言葉をこれまで何度か耳にしました。国のことですね?」
「そうだ。フヨの西、ヒンガンの麓にある国だ。そこに住む人々もまた鮮卑という。今朝けさここにいたクルトは鮮卑人だ」
「そうですか……。西にある鮮卑の国。人もまた鮮卑。それでよくわかりました」
「……。みながやろうとしないだけで、商売になるような品はどこにでも転がっていた。それに、わしはどう見てもソグド商人なので、みながみな、守ろうとしてくれた。翌年、わしは息子を授かった。それがウリエルだ」
「……。ヨーゼフ、それはいくつのときですか?」
「ウリエルが生まれたとき、わしは三十四歳だった。だが、次の春、その大事な息子をフヨに残したまま、わしはヒダカに渡ろうとしたのだ……」
「ダーリオが海とヒダカの地を見つけて戻ってきたのですね?」
「ああ、その通りだ……。フヨでは、北から川沿いに吹いてくる冷たい雪混じりの風を立ち木でさえぎって、木と土で作った家に住んでいた。フヨの冬はその前に住んでいた匈奴の東とは違う。もっと、ずっと寒い。匈奴の皮衣でも耐えられないほどだった。
 渇きと暑さに悩まされるバクトリアで生まれ育ったわしにはとても耐えられなかった。毛皮にくるまった幼いウリエルが側で笑っていても、冬のつらさは変わらない。本当に、春が待ち遠しかった。

 そうして、春が来て、ようやく陽ざしが戻ると、ダーリオが顔を見せた……」
「……」
「フヨの川岸の村から少し山に入ったところに匈奴の男が住んでいて、フヨ人の妻との間に二人の娘がいた。その男の左のくるぶしはつぶれていて、足を引きずって歩く。匈奴にしては珍しく、馬に乗るのを嫌がった。しかし弓矢を使わせるとうまく、シカを狩ったときなどは角と皮や肉を分けてくれた。
 ロバを何頭も飼っていたので、商いを手伝ってもらった。その妻と娘たちがいつもウリエルの面倒を見てくれるのをいいことに、わしはウリエルを妻のもとに残して旅に出た。
 海沿いまでダーリオを訪ねて行って長いこと帰らず、帰ったと思えば今度はモンゴルまで商いの旅に出て、フヨにとどまることがない。あれほど望んでいたせっかくの家族での暮らしを、わしはいたずらに過ごしたのだ……。
 ウリエルは幼い頃のほとんどを、フヨ人の母親と、わしの帰りを待ちわびながら育った。そのためか、わしにはあまりなついていない」
 そう言ったヨーゼフは寂しそうだった。
「ヒダカを諦めたすぐ後に、わしはもといたモンゴル高原の東のケルレン川の近くに戻ろうと決めた。ウリエルが十歳になる前だったと思う。匈奴言葉を話す者にどうしても脇にいてほしいと思い、嫌がるのを説き伏せて、足が悪い匈奴の一家も一緒に移った。
 その方が商売に都合がいいからとウリエルに話すと、『ならば、なぜもっと早く移らなかった』と、まだ子供だと思っていたウリエルが強い口調で問うた。賢い子だった。

 十年ほどして、わしが再びフヨの海沿いに移ると決めたとき、ウリエルはそのままモンゴル高原に留まった。そして、匈奴の女と一緒になった。
 ウリエルの妻が出た部族は、匈奴のうちでも東の方にある土地を夏の牧地にしていた。匈奴は夏と冬とで住む土地を変えるのだ。二人はわしがもと住んでいたすぐ近くに木の家を建てて住みはじめた。
 それから十三年間、ウリエルはずっとモンゴルに住んでいる。フヨの都までは来ても、この入り江に足を延ばすことはない。わしはもう、モンゴルまで訪ねて行くことはないだろう。わしにとって、いまや、息子はいないのと同じだ」

第6節3話[074]へ
前の話[072]に戻る 

目次とあらすじへ