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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[072]セターレが去った朝

第3章 羌族のドルジ
第6節 ヨーゼフ兄弟が目指した東の地
 
[072] ■1話 セターレが去った朝
「これからフヨの都に向かう。ハンカ湖から来る者たちとそこで落ち合い、隊商を率いてアルマトゥまで戻る。その後、バクトリアに行く。ヨーゼフ兄さんがこのフヨの地で作らせたという玻璃ハリの器はきっと届ける」
 長い昔語りを交わした後で、訪れた次の日の昼前、サルトポウのセターレは別れを告げて去って行った。都まで案内に立つというクルトが戸口に顔を見せた。外にはドルジもいる。
 ラクダの高い鞍に乗る前にナオトの腕を掴むと、セターレが笑顔を見せて言った。
「ナオト、また会おう。神の導きがあれば……」
 ナオトも同じようにして、ソグド語で別れの言葉を口にした。
「セターレ、会えてよかったです。お元気で」
 ナオトはそう言うと、脇のクルトに一礼した。そして、豆満江トゥメンウラの渡し場まで同行するというドルジに声を掛けた。
「道々、気を付けてな、ドルジ」
 ヨーゼフの後ろに立って、ナオトは三人の後姿を見送った。
 ――きっと、セターレとはまた会う。そんな気がする。それにしてもラクダとは大きな生き物だな。背も高い。こんなに近くで見られるとは……。
 と、すぐにいつものナオトに戻った。

 入り江に残ったヨーゼフは、その日一日、気が抜けたようになった。
 久しぶりに、本当に久しぶりに気のおけない一族の者と会い、長々と語り合った。その従弟いとこのセターレは、もう二度と会えないような遠くの土地に去って行った。そして自分は、そのままこの海際の地にとどまっている。気を落とすのも無理はなかった。
 その晩、初めて、ヨーゼフは匈奴について詳しく話した。
 ヨーゼフにはフヨ人の妻との間に生まれたウリエルという息子がいて、いまはモンゴル高原に住むという話からはじめた。ヨーゼフが息子について語るのも初めてだった。
「あれほどめたのに、ウリエルはソグドではなく匈奴の娘と一緒になった。そして、そのままモンゴル高原に居ついた」
 ヨーゼフは、匈奴をはじめ、モンゴル高原やフヨに生きる遊牧の民との交易に長らく携わってきた。しかし、匈奴の西の先、セターレが帰っていくイリ川の流域やバクトリアまで足を運ぶことはもうないという。
「セターレとの話を側で聞いていてわかったと思うが、わしは若い時分に匈奴に住んでいたことがある。北のバイガル湖近くに住む匈奴と同じように高い車の上で寝泊まりし、後にはモンゴル高原の東に家を建てた」
 ヨーゼフは、昨晩のセターレとの話はよく聞き取れなかっただろうと、その中身を補おうとしてくれた。

 兄弟でサマルカンドからのがれてアルマトゥまで行き、ついには、イリ川を渡ってジュンガル盆地の南のハミルまで逃げた。それをまだ若かったセターレが助けてくれた。
 そのハミルでニンシャから来た胡人の親子と出会い、はるか北にあるハカスの地に行くと決めた。アルタイ山脈に分け入り、それまでとはまるで違う金掘りの仕事をしたすえに、苦労してようやく辿たどり着いたのがモンゴル高原だった。
「しばらく商いをした後で、わしら兄弟はなお東に向かい、この入り江から見て南にある半島の先まで行った。弟がフヨの地で出会った同じ言葉を話す同族の者たちから聞いた、『そこまで行けば海の向こうにうっすらと東の島が見える』という言葉は正しかった。
 バクトリアを出てから、大地が尽きる海辺に行き着くまで、結局は七年掛かった。それこそ命を懸けた旅だった。そうしてようやく、フヨの人々がヒダカと呼ぶ土地を遠くに望む半島のはしまで行き着いたのだ。
 海の先にかすかに見える土地が日が高く昇る国ヒダカだということは、わしらにはすぐにわかった」
「えっ、ヒダカが見えるのですか? 西の海のこちら側から?」
「ああ、見える。わしは確かにこの目で見た。そして思った。『トーラーに書いてある東の島々だ。ついに地の果てまで辿り着いた』と……」
「……!」
「一族の者たちが何百年間も念願してきた東の楽園がそこにある。わしら兄弟は狂喜し、抱き合って泣いた。目の前に横たわるその海をわしらはヒダカの海と呼んで、すぐにも舟で渡ろうと話し合った。一族の誰もが望んだ夢をかなえるのだ、と」
「……」
「その半島の南の端の地には、東の島から渡って来たという者たちがムラを作って大勢住んでいた。ナオト、お前と同族のヒダカびとだ」
「この南にある半島にはヒダカ人がいるのですか……?」
 ――どういうことだろう……。

「周りに数人、同じく海を渡ろうとしている胡人たちがいた。そこで、みなで語り合って、そのヒダカ人たちに頼んで舟を見つけてもらうことにした。案内も頼んだ」
「それで、渡ったのですか?」
「渡ろうとした。何度も。しかし、果たせなかった。はじめは嵐に会い、次には舟が岩に乗り上げ、ようやく流れ着いた途中の島でヒダカ人とは違うわるものに捕らえられて、仲間を何人も失った。持ち物もすべて奪われた。そしてついに、わしはあきらめた。ヒダカに渡ろうと決めてから、すでに十年近く経っていた」
「西の海にはヒダカ人ではない者の住む島があります。それに、昔はヒダカだったのに、いまはアマの者たちが住む土地があるといいます。ヒダカの南は、もはやヒダカではないのです。アマはヒダカとは違う。大勢で悪さをする賊がいると聞きます。武器を持ち、シカを狩るようにして人を殺す荒くれ者すらいる……」
「わしらが知らぬ間に、ヒダカはヒダカではなくなっていたのだな……」
「それで弟はどうしたのですか。ダーリオだけで渡ったのですか?」
「そうだ。フヨの山のふもとの住まいに戻ったわしが、モンゴルに戻ろうと決めたすぐ後の航海で、無事、アマ国に渡った。それをわしは、六年も経ってから知った。ダーリオからの便りは前に見せただろう?」
「そうか……。あの竹に彫った便りは、アマまで無事に着いたという知らせだったのですね?」
「ああ、そうだ。わしは安堵して思わず両手を天に向かって突き上げ、神に礼を言った。何度も」
「……」

「……。ダーリオに別れを告げてから、もう二十二年になる」
「二十二年ですか……」
「どうやって見つけ出したものか、ヒダカの舟長ふなおさが弟からの無事を知らせる便たよりを届けてくれたとき、わしは商いの品を探しにフヨの入り江まで来ていた。お前の義兄あにのカケルとはその舟長を通して知り合ったのだ」
「舟長のミツルですね?」
「そうだ。ヒダカのミツルだ。ミツルは、れいにと、わしが渡そうとした小袋の黄金きんを受け取らなかった……。そういう男だ。この入り江にヒダカのコメを初めて運んだのはそのミツルだ。カケルがここに来るようになる十年も前のことだ。
 その舟長が声を掛けて、カケルは何度か、一緒にアマ国にも行ったはずだ。れの後をぐのはカケルだと、ミツルが頼りにしていた。二度目のとき、カケルはわしの求めに応えてアマ国で南の海の貝を探し当てた」
「貝ですか?」
「そうだ。貝だ。もう手に入らないと思って諦めていたゴホラ貝をカケルがアマで見つけてきたのだ。前に話しただろう?」

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