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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[071]ハミルからハカスへ

第3章 羌族のドルジ
第5節 アルマトゥから来た男
 
[071] ■7話 ハミルからハカスへ
 ヨーゼフは、四十年前、コシでセターレと別れた後に起きたことを語り続けた。
「ハミルの古い知り合いの家でレヴィ親子と合って、わしら兄弟はハカスまで一緒に行こうと決めた。身を隠すのに、そこでしばらくニンシャ人と一緒にきんを掘るのも悪くないと考えたのだ。
 わしらは、しばらく住むところを探して借りた。ちょっとした商いをしながら春を待つつもりだった。セターレ、お前が話してくれた商人を見つけ出して言付けを託し、ハミルの東に落ち着いたのだ。そして春を待って、ニンシャ人の一団とともにアルタイを越えて北に向かった」
「……。吾れはあの後、何度かハミルに行った。しかし、アルタイを越えたとはいま初めて知った。ハンカ湖の会所カイショまで来て、たまたま、ヨーゼフ兄さんの居所を知ったのだ」
「そうだったか。すまなかったな……。ダーリオはハミルに戻って、一時そこに住んでいたことがある。いまから三十年も前になるが。しかし、そのときには名前を変えていた」
「二人とも、いろいろと苦労したのだな……」
「……。ハミルを出てからはつらい旅路が続いた。しかし、周りにいる誰もが同族だという安心感があった。七日目になって、ヴェールを付けた女たちがロウソクの火を手で招き寄せながら祈る姿を目にしたとき、忘れていた遠い日々の記憶がよみがえった。
 そうやって安息日シャバットがはじまると、歩くのを止め、火を焚かず、両手を挙げてともに祈った。その日の会食は、食べる物などほとんどないのに、本当に楽しかった。生きることの意味が長い旅路に痛む足の裏やひざからじかに心の奥底に届く気がした。ダーリオと二人で逃げていたときにはついぞなかった感覚だった。
 そうして次の朝を迎え、再び、砂埃を上げながら乾いた道を歩き、岩山を越えた。
 一月半ほどすると、しかし、ニンシャ人たちの歩みが止まった。水が塩辛い湖の近くだった。幼子おさなごの一人が腹を下したのだ。
 沼と塩湖に沿って続く荒れ野はいくら歩いても尽きそうにない。食い物を分けてもらったりしていたが、それにも限りがある。いろいろと話し合って、わしらはそこで別れを告げ、兄弟二人で先にハカスに急ぐことにした。
 その先の山道をどう抜けたのかは全く思い出せない。覚えているのは、ずっと腹をかせていたということだけだ。とにかく北に進み、石を積んだ道標みちしるべを頼りに、日当たりがよく住みやすい、大きな川が音を立てて流れる土地に行き着いた。ハカスだった」

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