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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[064]燕の鉄とサカ人の鉄

第3章 羌族のドルジ
第4節 入り江の嵐
 
[064] ■3話 燕の鉄とサカ人の鉄
「ドルジ、吾れはエンの鉄という話を何度か耳にした。燕というのはお前が戦った国だろう? 燕の国は鉄で知られるのか?」
「ああ。燕は鉄の国だ。燕では溶かした鉄からいろいろなものを作る。鍋がそうだ。フヨの鋼のように叩いて作るのではない。ただ、燕の鉄は硬いのだが、剣にするにはもろい。小刀や剣にはフヨの鋼の方が向いている」
「そうなのか……。その鋼のおかげで鮮卑センピは燕と戦っても勝てるとハヤテは聞いたそうだ」
「ああ、クルトはそう考えている。吾れもそう思う。互いに剣を持って打ち合ったら鮮卑は漢兵には負けない。鉄が違うのだ」
「溶かして作る鉄と、叩いて作る鉄か……」
「ナオト、その叩いて作る鉄を伝えたのがサカ人だというのは知っていたか?」
「いや、知らない。サカ人? それはどういう人たちだ?」
「昔、西から渡って来たペルシャの人々だ。鉄とその作り方をモンゴル高原の北に伝えたと言われている。初めはバイガルという大きな湖のほとりに伝わったそうだ。それを、鮮卑の祖先がさらに東の地に伝えた。いまでいえば、息慎の陸だ。それだけではない。馬に乗ることを教えたのもサカ人だ」
「鉄と乗馬を伝えたサカ人か……」

「サカ人は、いまも生きているそうだ。何でも、バクトリアの北の方にはサカ人の住む国があるという」
「……。バクトリアか。ヨーゼフ兄弟が生まれたはるか西にある乾いた国だ。いつか行ってみたいと考えている土地だ」
「ヨーゼフに聞いたのか?」
「ああ。吾れはヨーゼフからいろいろなことを教わった。もしかすると、サカ人についても話していたかもしれない。バクトリアはもともとはサカ人の国だと言っていたような気がする。フヨに来たばかりの頃で、よく聞き取れなかった……」
「もしかすると、サカ人は吾れたち羌族の先祖かもしれない。吾れは前からそんな気がしていた」
「同じ西の方から来たからか?」
「ああ。だが、それだけではない……」

「南でも、西でも、国と国とが土地をめぐって争っている」
「……?」
「吾れは、小さい頃からそう聞かされてきた。祖父は、そうした争いが起きるたびに騎馬隊を率いて戦った。そして、最後には追い払われた」
「……」
「吾れたち羌族は、いつも大きな国に挟まれ、人々は戦さの道具に使われて、しかしなんとか生き延びてきた……。欲しいものがあれば、争ってでも手に入れようとする。人とはそういうものだ」
「……」
「ヒンガン山脈を北に行くと、見晴らしのいい丘の上に大きな石があって、それに布や紐が巻き付けてある。石の上に石を置くので、積石オボーというのだそうだ。どちらに進めばいいかを、北の民はそのオボーを見て決める。迷ったときには、風になびく布を見てそれに従うそうだ。石に向かって祈りも捧げる。
 その昔、インという国の者たちは吾れらキョウ族をヒツジと呼んで、占いのときの生贄いけにえに使った。喉を切って流れる血を神に捧げたのだ。
 その前に、オボーの布と同じようにして、弓矢で狙ってどちらに逃げるかで吉凶を占った。生贄が逃げ延びた方角に軍を進めたのだ。羌族の墓をあばいて骨を取り出し、その骨を焼いて吉と凶とを占うこともあったという。
 これは幼いときに祖父から何度も聞かされた話だ。祖父はいつも、『ドルジ、だからといって漢人シーナを恨んではならない』と吾れに言った。『殷も、漢もない。人とはそういうものだ』と教えてくれた」
「……。なぜ、そうなるのだ。人が人を殺して楽しむのか?」
「力の強い者が選び、決めて、弱い者はそれに従う。従えば生き延びられる。『国の中や草原で多くの人々がともに暮らすならば、それは当たり前のことだと思え』と、祖父は言っていた。
 だから我ら一族の者は、小さいときから馬に乗り、弓矢を覚えさせられる。そうすれば、少なくとも占いの道具にされるようなことはない。吾れら羌族は、それを何百年も続けてきた。殷の国は、最後には、馬に乗って矢を射る羌族がシュウの王に力を貸して滅ぼしたのだ」
「……。ヒダカにも弓や矢はある。しかし、それを人に向けて射る者などいない。吾れは、争うのが当たり前だなどとは、考えたことすらない。ドルジ、吾れが間違っているのだろうか……?」

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