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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[063]島から泳いで戻ったナオト

第3章 羌族のドルジ
第4節 入り江の嵐
 
[063] ■2話 島から泳いで戻ったナオト
 嵐の後に、きつい日射しが戻った。ナオトは、ハヤテに一言断り、なぎさに向かって歩き出した。
 東の沖にある島まで泳ぎ、すぐに戻ってきて息を弾ませ、寄せる波に足元を洗わせながら潮水しおみづで濡れた体を乾かしていると、ドルジがやって来た。泳ぎ出すナオトを見掛けて、島から戻るのを待っていたのだ。

「ナオトっ」
「おっ、ドルジ」
「また泳いだのか……」
「ああ。じっとしているには、今日は暑すぎる」
 ドルジが真顔で話し出した。
「吾れは祖父に連れられてフヨの地まで来たと、前に話しただろう?」
「ああ、聞いた。大変な旅だったんだなとそのとき思った」
「その祖父の弟に、ヒダカに渡った者がいる」
「なんだって?」
「まだ斉にいた頃に、祖父のもう一人の弟から聞いた。同族を頼りに舟で東の島に渡ったまま戻らないと言っていた。幼かった吾れは、何のことかわからずに、ただ近くに座って聞いていただけだが……。
 ヨーゼフは吾れの父に、もしかすると自分の弟のダーリオはその人のところにいるのかもしれないと話していた。何でも、一度受け取った便りに、吾れは同族のもとにいると書いてあったそうだ。
 ヨーゼフが言う同族とはアブラムの一族のことだ。まさかとは思うが、全くないことではない。祖父の牧場まきばには海が見えるところもあったからな。舟も梶取も探せばすぐに見つかっただろう……。この海から続いている南にある海だ」
「アブラムの一族……?」
「そうだ。ヒダカや羌族やフヨのような、別の言葉を話す一族のことだ」
「ドルジ、お前は羌族ではないか。羌族とヨーゼフの一族とは同じ部族なのか?」
「実を言うと、吾れにもよくわからない。吾れは、自分は羌族だと思っている。だがヨーゼフは、吾れの一家が属するのは羌族のうちでもアブラムの一族に違いないと言う」
「……? お前の言っていることがよく呑み込めないのだが」
「漢人が胡人こじんとも羌族とも呼ぶ吾れらの部族の間にはいろいろな者たちが混じっているのだ。アブラムの一族もその一つなのだろう。
 我ら羌族の祖先は、もともとは中国シーナのはるか西からやって来たと言い伝えられている。西の沙漠さばくのその先からだ。そして、やがてシーナの海際に住み着いた。何百年も前のことだ。そうやって移動するときに、いろいろな部族が混じったのだろう。そういうことはきっとあったと思う……。ナオト、お前はタナハを知っているか?」
「タナハ? いや知らない。何のことだ?」
「字が書いてある巻物だ。吾れは、祖父が昔くれた薄い革でできたその巻物を持っている。祖父が何度も、寝る前に読んでくれた。吾れを寝かしつけるのに読む話なのだろうと、長い間、思っていた。
 ここに移って来る前に父が、幼い頃、同じように考えていたと話してくれた。それから、実は、あれは大事なふみを短くまとめたものだと言った。それがタナハだ。この入り江に来るときに持ってきた」
「わずかな荷物に入れて持ってくるほど、お前にとっては大事なものなのだな……」
「祖父をしのばせるものは、もうそれだけだからな……。ヨーゼフが『それは何だ』と訊くので見せると、本当に驚いて、『なんと、手元に置いていたのか?』と言った。父はタナハがどこにあるとは話さず、一家で北に逃げるとき斉に置いたままで来たとヨーゼフは思っていたらしい。
 巻物を手にすると、『お前はやはり、わしと同族だ!』と珍しく大きな声で言った」

「ドルジ、そのタナハには文字が書いてあるのだろう? お前、字が読めるのか?」
「ああ。タナハの一部を吾れは読むことができる。中身は小さい頃に覚えてしまったが、しかし、読もうとすれば読める。書くこともできる。
 羌族には吾れらのように胡人の言葉で書かれたタナハを読む部族が混じっていると聞く。何年か前までは知らなかったのだが、漢では、生まれではなく、胡人の言葉がわかる部族を胡人というのだそうだ。ならば、吾れも半分くらいは胡人だな」
「はははっ。半分か……」
「ヨーゼフは、タナハを読むのはアブラムを先祖に持つ一族のあかしだと言った」
「つまり、タナハが読めれば同族だということか?」
「どうだろう。吾れにはわからない。それを代々続けてきたというのが肝心なのだろうか?」
「代々続けてきたのか?」
「それは、そうだ。何十代にもなる」
「何十代もか! タナハには、お前が読めないところもあるのか?」
「んーっ。おそらく残りの文も読めるだろうが、まず、何が書いてあるかを教えてもらってからでないとその気にはなれない。どうとでも読めるからな。
 吾れが読む箇所には、『お前の子等に教えろ』というせつがある。祖父は十歳過ぎまでは毎朝毎晩、その節を唱えていたという。だから心のどこかで、吾れの父にも教えなければと思っていたのだろう。その父にしたってそうだ」
「そうやって毎日子供に教えるから、何十代も続いたんだな……。他には何が書いてある?」
「この世がどうやってできたかが書いてある。この地上にある物すべてが洪水で流され、水に沈んだという話もある」
「コウズイ……?」
「水があふれて、地を覆うことだ。その大きな洪水があったときには、この地がすべて海の下になったそうだ」
「……?」
「吾れの一族では、昔から、その家で一番初めの男の子は文字を覚えさせられる。しかし、吾れが読み書きできるのは羌族の間で胡人の言葉と呼んでいる文字だけだ。タナハを使って教わった。ソグド語は、話すことはできても、書くことはできない。習えば書けるようになるとは思うが……」
「……。そういう羌族がヒダカに渡って、多く住んでいるというのか?」
「ああ、吾れは昔、そう聞いた。ただ、その者たちがみな、ヨーゼフの言うようにアブラムの一族かどうかはわからない。ナオト、お前、そういうことはあると思うか?」
「吾れにはわからないな。聞いたこともない。ただ、ヨーゼフの一族は、大昔にアッシリアというところを出て、みなで東に向かったそうだ。何十万人もだぞ。弟のダーリオが無事にアマまで行き着いたのだから、他にもっといてもおかしくはない。
 いま、ヒダカはいくつかの国に分かれている。そのうちの一つをアマという。ヒダカから見て、高い山を境にその南側にある。西だと言う者もいる。弟のダーリオはそのアマの国にいるとヨーゼフが言っていた」

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