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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[043]ヨーゼフの話は続く

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第7節 ソグド人と交易
 
[043] ■3話 ヨーゼフの話は続く
 昨晩、眠くなったからと途切れた続きからヨーゼフが話しはじめた。
 見知っていることからあまりにも掛け離れた話なので、毎夜聞いてもナオトは飽きることがない。話す方のヨーゼフも、膨れ上がるナオトの好奇心を肌で感じていた。
「いまから百年前、ギリシャ人のディメトリオスという王が治めていたバクトリアは東西の交易の中心だった。中心とは、地図で見て真ん中ということだ。どこへ行くのにもそこを通る。
 東のシーナからは絹が、西のメソポタミアからはモースルに集められた物産が運び込まれた。メソポタミアのその先にあるエジプトからも、南にあるインドからも、はるか西のローマからも珍しい品々が届けられた」
「ローマというのも国ですか?」
「ああ、国だ。この地図には描いていないが、左端に描くべき六つ目の大きな丸だ。わしは交易品がラクダの背に揺られて西や東から頻繁に届くのをこの目で見て育った。沙漠の果てまで隊商カールヴァーンのラクダの列が続く。それは見事なものだった。そうした品々は、翌日にはバクトラのバザールに並ぶ」
「絹のことは聞いたことがあります。でも、モースルは初めて耳にしました。何のことですか?」
「モースルは町の名だ。アッシリアの二つある大きな川のうち、東側のティグリス川の渡河点に当たる。そういう場所なので、自然と、人も周辺の品々も集まる。綿や麻でできた平織物や、瓶に入った油、酒、染料などがそうだ」
「そうか、モースルはアッシリアという国の町の名なのですね……」
「ああ、そうだ。バクトラのバザールに並ぶのは穀物や果物、野菜などの食料と日々に使う道具類だけではない。北から来る獣の皮、なめした革や毛織物も所狭しと並ぶ。南から来る香辛料、珍しい石や象牙、薬品や金属などさまざまだ。
 わしの一族は、どれも一度は手掛けたことがある。しかし、重くて値が張るものは止めた。盗みに弱いものもそうだ」
「ヌスミですか?」
「そうだ。他人ひとの持ち物に手を出して、自分のものにすることだ」
「盗み……」
「この間話したアルタイの北の黄金きんや赤い石、緑の石、南のインドから来る青い石。ベッコウやゴホラ貝も貴重な商品だった。わしは、モンゴル高原の東の端からハミルのバザールまで、幾日も掛けてわざわざそうした石を探しに行ったことがある」
「ゴホラというのは、アマ国からこの入り江までカケルが運んできたというあの貝ですか?」
「そうだ、それだ。お前に見せたっけか?」
「ええ、見せてもらいました」
「そうか……。ベッ甲というのはこれだ。大きなタイマイというカメの背と腹の部分を薄く剥がしたものでできている」
 黄色くて透き通る、女が使う櫛のようなものを後ろの棚から取り出して見せてくれた。
 ――薄くて軽い。ヒダカなら竹か木で作って、うるしを重ねて塗る。
「わしは作るところは見たことがないが、光らせるのに灰で磨くそうだ……。それと、こっちの輝くような青い石はサッピルスという。どちらもインドの商人がバクトリアに運び、そこからソグドの仲間がハンカ湖の会所まで持ってきた。ハンカ湖というのはカケルが向かった先だ」
 ――ハンカ湖のカイショ。商人が取引するところ……。
 ヨーゼフが手渡してくれたサッピルスは、青い大きな石の塊だった。
 ――人は何でも、色鮮やかに光ったり、透けて見えたりするものを好むらしい。そう言えば、玻璃ハリも、ヒダカの琥珀こはくもそうだ……。
「そうした色の付いたものや透き通って光るものを、人はなぜ欲しがるのでしょうか?」
「女を飾るためだろう。この世で貴重とされるものは、みな、女が欲しがるものだ」
「やはり女ですか……?」
「おそらくな。鳥も同じだ。一つがいの鳥のうち、たいてい、色のきれいな方がおすだ。めすがそれを好むのだろう」
「言われてみれば、そうですね……」
「バクトリアは、金属製品を中継ぎする土地でもある。いろいろな国で作って、バザールに持ち込む。それを手に入れた商人は別の国に持って行き、高値で売る。
 バザールには、この入り江ではとても見つからないような品々が数多くある。履物と衣類にしても、数えきれないほどだ。口で言ってもわからないだろう。一つ、その履物を見せてやろう」
 立ち上がったヨーゼフは、夏に履く革でできたアッシリアのサンダルと、冬に使うという匈奴の長靴を奥の蔵から持ってきた。

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