見出し画像

『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[042]ソグドの文字

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第7節 ソグド人と交易
 
[042] ■2話 ソグドの文字
「はじめ、ソグド人はペルシャの言葉をアラムという文字で書いていた。ところが、いまから三百年ほど前、西のマケドニアという国に、ペルシャ人がイスカンダルと呼ぶ恐ろしく強い王が出た。この間話したギリシャ人のアレクサンドロス大王だ。
 広大な土地を次々と征服して回ったその年若い王は、ソグディアナやバクトリアを攻め取ってペルシャを滅ぼして、使う言葉をギリシャ語に切り替えた。そのときからソグド人は、話し言葉のソグド語を同じアラム文字の別の書体で書くように改めた。ほら、これがソグドの文字だ」
 革紐で綴じた何枚もの革の切れ端を渡してくれたのでめくると、ぎっしりと横に並べて何か記してある。こうして、昔からの取引を相手の名前とともに記録しているという。
 ――何十年分も……?
「……。何が書いてあるのか、さっぱりわかりません」
「それはそうだ。読むには慣れないといけない。それに、何を書き付けたものにせよ、そのことがよくわかっていなければ文字は読めない。しかし、それだけのことだ」
「慣れか。そうか……」

「支配者と商人という長い間の関係を通じて、ソグド人は交易を行っただけではない。国と国との関係をとりなし、戦さについて相談を受け、信仰、幻術、音楽、舞踏などの芸能を伝えた。それに、そうしたときには通詞つうじとして活躍した。なぜといえば、ソグド語があったからだ」
「幻術と音楽。それに通詞……。ヨーゼフ、幻術というのは何ですか?」
「目くらましのことだ。それを身に付けて暮らしを立てている者がペルシャにはいる。音楽とは歌うことと楽器を弾くことだ。楽器にはリラや笛がある」
「リラ、笛……」
「こればかりは口で言ってもわからないだろう。実際に聴いた方が早い。そのうちにな」
「はい!」
「ソグド語はもともとは交易に使われていた。だが、カスピ海の西からヒダカの海までの広い広い陸地の隅々で、いろいろな国で共通に使用する言葉になったのだ。どの部族も等しくかいする言葉だ」
「それは、吾れも感じました」
「そうか?」
「この入り江に来て、それを知りました」
「……。その同じ言葉が通じる広い世界の一つの中心がバクトリアだ。我らの一族がいまもなお住んでいる土地だ。
 バクトリアの支配者がペルシャ人からギリシア人に代わった後に、匈奴に追われた同じ遊牧民の月氏ゲッシが東から現れた。バクトリアからギリシャ人を追い出した月氏は大月氏ダイゲッシという国を建てた。しかし、わしらはソグド語をそのまま使い、大月氏の王のために交易と物作りに従事するという役割を続けた。
 ソグドの商人から聞いたことだが、いまから十年あまり前にアッシリア王の使者がはるばるシーナの王に貢物みつぎものを献じたそうだ。アッシリアはペルシャよりもさらに西にある。シーナに行こうとすれば、この入り江とバクトリアの間よりもなお遠い。そのアッシリアの使者を漢の都まで案内したのはソグド商人だ。なぜだと思う?」
「通詞ですか?」
「そうだ。その通りだ。その土地、その国の言葉を使いこなすからだ。それに、知恵があって、信頼できる。それがソグド商人の強みなのだ」
「アッシリアというのは、ヨーゼフの先祖が五百年前に後にした、二つの大きな川の上流にあるというあのアッシリアですか?」
「おおっ、覚えていたか……。そうだ、あの二つの川が流れるメソポタミアの国だ。我ら一族が旅立った地だ。ところで、その漢まで出向いたアッシリアの使者の名だが、イオナというのだ。イオナは、神代かみよの昔に、ヒョウタンを枯らしたといって神に対して怒りをぶつけた愚か者の名だ。ナオト、わかるか?」
「んっ…? なんか、話がどう続いているのかよくわかりません」
「お前の水筒はヒョウタンでできているだろう。それは、もともとはアッシリアの原に生えていたのだぞ。その種が、周り回ってなんとヒダカの地まで渡った。鳥ではない。人が伝えたのだ。わかるか? 交易とはそういうものだ」
「そうか、ヒョウタンの種も交易される品になるのか……」

「バクトラの町には大きなバザールがある。大勢の商人がさまざまな品物を持ち寄って取引している。そこにはヒョウタンも並ぶ。昨晩話したハミルのバザールよりもはるかに大きい。ナオト、どの町かはわからぬが、お前はいつかきっとバザールをのぞくことになる」
「バザール。物を取引するところ……。それならばヒダカにもあります。いちといいます」
「そうか、あるか……。市はこの入り江にもある。しかし、バザールは市とはずいぶん違う。そうだなぁ、バザールでは取引をするというのではないな。ありったけのものを並べて置いて、売りたいものとその値段を大声で叫んでいるところと言った方が近いかな……」
「……?」

第7節3話[043]へ
前の話[041]に戻る 

目次とあらすじへ