『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[012]三つ目の海境
第1章 西の海を渡る
第4節 三つの海境
[012] ■4話 三つ目の海境
三つ目の海境があるというのは、カケルは話に聞いたことしかない。
まだ早すぎると周りに言われながら双胴の舟を自前で持って二度目の航海だった。
大陸に渡ろうと用意していた夏、野代の荷主の手違いから、揃うはずの荷が約束の日まで十三湊に届かなかった。その二月前に初めて一緒に西の海を渡った舟子の多くは、待ちきれずに別の仕事に出払ってしまった。急いで集めた替えの人数で漕ぎ出しはしたが、大きな舟を操るには力不足だった。
――シタゴウがいてくれたら……、
と、カケルは心底そう思った。
そこに、それまで見たことのないような大風がぶ厚い雨雲とともに南から迫ってきた。島陰に避けようとして間に合わず、呑み込まれて荷を失い、帆も櫂も梶も流された。ついには舟がばらばらになって、舟子もろとも海に投げ出された。みな散り散りになり、そこらに浮いている荷などに掴まって、北に流された。
気が付いたときカケルは、一人、丸木舟の一つにしがみついていた。辺りを探るが誰も見えない。どうにか這い上がって、櫂がないまま幾日も海の上を漂い、ある夕方、ようやく陸に流れ着いた。
磯の匂いが腹に浸みる。遠く西の海辺に変わった形の岩山が二つ、海から突き出るようにして並んでいるのが見えた。
――息慎の陸だ……。
瀬音を頼りに水を求めて奥へ奥へと進んだ。辺りに人の気配はない。浅い川に出ると、その瀬を紅い鮭が重なるようにして遡って行くのが見えた。
まだ夏のはずなのに水は驚くほど冷たい。喉の渇きが止まらず、浴びるようにして飲み、手近の竹で筒を作って水を詰めた。その晩は、フクロウの甲高い鳴き声に驚き、茂みの音に熊かと耳をそばだてながら、腰の小刀の柄を握り締めて大きな木の枝に横になった。シタゴウが夢に出てきて寝付けなかった。
翌朝、聞き慣れない獣のいななきに驚いて目が覚めた。川の向こう岸で、皮の衣をまとった男たちが馬に水を飲ませている。
思わず、「おおーい」と声を掛けそうになって、止めた。悪い予感がしたのだ。
そのとき、顔を上げた年配の男と目が合った。何かを感じ取って、カケルはすぐさま木から飛び降り、昨日来た林の間を駆け戻った。
――海に出なければ、早く!
その一心で走った。
騎馬の一団は川を渡ろうとしている。それが気配でわかった。
振り返らずに走って行った先に、短い弓を持った背の低い男が一人立ちはだかっていた。こちらに来いと大きく手招きしている。木の枠にアザラシの皮を張った小舟に飛び乗り、二人で沖に向かって懸命に漕いだ。
片言のフヨ言葉で「フヨの人か?」と訊く。身振りで「違う」と応えたその白髪混じりの猟師は、代わりに、北の島の人々の言葉を少しだけ話した。カケルもその言葉なら少しできた。
――どうも、息慎の人らしい。会えば恐ろしい目に遭うと聞いていたが……。
舟底に、ヒダカに運んだことのあるキツネやテンの毛皮が何枚もイラクサの茎で結わえて転がしてあった。この猟師は、カケルの腹が鳴ると笑い、干した魚を皮袋から出して手渡してくれた。いつも狩りをしていて、最後に人と会ったのは月が三回満ち欠けしたその前だと言う。
北の島の言葉に身振り手振りを交えて話すうちに、いま逃げてきた岸から北へと海沿いに月が一周りするまで歩くと大きな黒い川があり、その先は島と陸地とが繋がっていると言った。
「ツナガッテいるのか?」
カケルが伸ばした両手の人差し指を合わせながら問うと、同じく両手を使い、身振りを交えて答えた。
「海が狭くなっていて、寒くなると東にある島と繋がる。氷を踏んで渡ったこともある」
――そうか、海境だ。海が凍ると歩いて渡れる。つまり、繋がるのだ……。
いま、南西を指して小舟を漕いでいるこの海は、遠く東の彼方まで広がっているように見える。だが、その海をはるか沖合いで遮るようにして、北から南へと大きな島が横たわっているという。島の北は平らで、南には山がある。地元の民はその島をカラプトと呼ぶ。
――北の島のはるか北に、島があるのだ……。
「カラプト……」
カケルは、その猟師が口にした聞き損じようのないカラプトという島の名を胸に刻んだ。
ずっと後になって、そのカラプトの島は、あのとき北の島の尽きたところから微かに見えた陸地ではないかと思い当たった。
――吾れを庇ってあの世に先立ったシタゴウが、北の島の、そのまた北にある別の陸と言った、あの陸だ。いつか二人で渡ると決めた島だ。
いまこうして、人伝てにだが、三つ目の海境があることを知った。
――そして吾れは年をとった。
猟師の小さな皮舟を息慎の陸に沿って漕ぎながら、カケルはしみじみとそう思った。
この三番目の海境の話は、いまは大陸側のフヨに住んでカケルを助けているハヤテ以外、誰にも話したことがない。いまになって思う。あの大風にやられたときには、十三湊を出るときから不吉な陰が付きまとっていた。
――あのような気持ちに襲われたのは、シタゴウと北の島に向けて十三湊を出たとき以来、二度目だった……。
カケルは多くの仲間を死なせた自分を責める。
――もうがむしゃらに突っ走るだけではだめだ。
双胴の舟を失ってから二年後の秋、カケルは、カエデという善知鳥の娘を知った。
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