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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[039]バクトリア生まれのヨーゼフ兄弟

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第6節 メソポタミアから来た一族
 
[039] ■1話 バクトリア生まれのヨーゼフ兄弟
 晴れて雲一つない日が続いている。
 このところ、ナオトがいろいろなものの名前を覚えはじめたために、ヨーゼフは話の中身を変え出した。夕食の後、何かで昔を思い出したものか、いつものことながら唐突に、ヨーゼフがつぶやくように言った。食卓には丸を五つ描いた最初の晩の地図が広げてある。
「いまから七百年近く前に、わしらの祖先はメソポタミアというところで暮らしはじめた。カスピの海のなお西、二つの大きな川が流れているところだ。馬かラクダに乗って無事に進むことができれば、ここから西に向かって半年ほどで着くかというほどに遠い。地図でいえばここがメソポタミアだ」
 と、大きな丸の左にある四番目の縦長の丸を指した。
「アブラムを祖とするわしら一族は、その前にはサマリアという土地の海に近いところにいた。いまそこに見えているヒダカの海とは別の、はるか西にある海だ。その地でアッシリアという国と戦って敗れ、メソポタミアの大きな川の上流に捕虜として連れていかれた。奴隷どれいとして働かされたのだ、百年を越える長い間」
「ドレイですか? 百年も……?」
「ああ……。主な仕事は農耕と牧畜だった。そのための道具も作った。戦さに使う道具を別にすれば、道具といえば農耕と牧畜と日々の暮らしに使うためのものだ。それを土、石、木、角、骨、皮などでこしらえた。
 奴隷は、支配する者に従わなければえ死にするかむち打たれて死ぬかだ。そういう暮らしを何代にも渡って続けた。わしの同族はもともと手先が器用なのだが、それがいよいよ磨かれて、たいていの道具は一族の者たちで作り出せるようになった。お前にはわかるだろう、ナオト」
「ええ、わかる気がします。吾れたちもヒダカではそうしていますから」
「メソポタミアでは牧畜をしていたので、手元には家畜の皮が豊富にあった。それをわしの遠い祖先は衣類、日用品、装飾品、武具などに利用した。なめして柔らかくしたり、厚いままだったり、滑らかなかわにしたり、削って薄くしたり、みな、エジプトにいるときに身に付けた技だ」
「エジプトというのは前に話してくれた国の名ですね? 一番左の丸の……」
「そうだ。覚えていたか……」

 ヨーゼフは地図に指を置いた。薄革の左端、縦に長い丸のメソポタミアの左下だ。
「メソポタミアからエジプトまでは、岩山と沙漠を越え、海を渡って行く。そのエジプトでも、我ら一族は奴隷だったのだ」
「……?」
「わしらは、本当に長い間、奴隷の生活を強いられた。わしらの住む土地がメソポタミアとエジプトの間に挟まれていたからだ。二つの大きな国を行き来するときには海沿いにサマリアを通る。だから攻められた。
 奴隷とはいっても、日々のかては自分で得なければならない。奴隷は犬とは違う。口にするものを主人が与えてくれるということなどないのだ。使い残しとか捨てるものなど何もなかった。エジプトでも、メソポタミアでも」
「……」
 奴隷どれいとはどんな人たちなのか思い浮かばないナオトは、ただ、黙って聞いていた。
「奴隷の集団にとって、皮革かわを材料にいろいろなものを作ることは家の中でできる大事な仕事だった。日射しにさらされることがない。それに、良いものを作ればきっと交換に食料をくれる。オオムギなどの穀物も手に入る。ほれっ、これも革でできている。鞣したヒツジの革を薄く削ったものだ」
 ヨーゼフは、地図を持ち上げて目の前でひらひらと振りながら言った。
「そのうちに、わしらの先祖は革を使って戦さのための胴衣や、馬車や馬に乗るときのための馬具ばぐを作るようになった。いまから考えれば、それがいけなかったのかもしれない」
「どうしてですか?」
「馬は戦さに使われる。馬具もそうなる。いい馬具は、戦場であっても奪い合いになるほどだと聞く。そしていい馬具の作り手は、いずれ、みな殺しになる」
「そうなんですか?」
「いいや、いまそう思った。国と国との戦さに加担する者はいつか殺される、と」
「……」
「その後、アッシリアがカルデア人に敗れたとき、我らの一族はメソポタミアを出た。百年ぶりに奴隷の身から解き放たれて、その地を旅立つことを許されたのだ」

先刻さっき話に出たカスピの海というのはどの辺りにあるのですか?」
「カスピ海は、地図でいえば一番大きな円の左上……、ここだ。フヨからみれば、何か月も西に行ったはるか彼方の大きな湖だ。向こう岸は見えない。だから、湖ではなく海だという者もいる。メソポタミアから見て、東にある高く険しい山を隔てたところにある。
 わしの先祖は、その山を苦労して越えて、カスピの海を回ってバクトリアまで旅したのだ」
「海のように大きい湖……。そのヨーゼフの先祖の旅立ちはいつ頃のことですか?」
「いまから五百年ほど前だ。わしらの先祖の一団はメソポタミアを出て、太陽の上る土地を求めて東方マッシレックに向かった。
 東にある海の向こうには乳と蜜が流れているような楽園があって我ら一族が着くのを待っていると、昔の偉い人たちが何代にも渡って繰り返し教えてきた。一族を導く長老たちだ。みな、その教えを信じて、いまから思えば到底信じられないような過酷な旅を何か月も、何年も続けた。
 すべて合わせれば何十万という数の人々が集団で東を目指した。飢えと渇き、砂嵐と盗賊団。それは言葉では表せないほどの苦難の旅だったという。しかし、もはや奴隷の生活ではなかった。だから耐えられたのだと思う。
 方々に分かれ、散り散りになって、わしらの一族はようやくオクソスという川の流れる土地に行き着いた」
「オクソス川ですか?」
「そうだ、オクソス川だ。その頃はまだペルシャ人が支配していたので、アム川と呼ばれていたそうだ。ソグド人はワフシュ川と呼ぶ。支配する者が変われば、土地の呼び名が変わる。川の名前もそうだ。話す言葉も、習慣も」
「支配する者が川の呼び名も、話す言葉も変える……」
 ――ヒダカでは、そのような話は聞いたことがない。
「わしらの先祖は、バクトリーシュと呼ばれていた国の周辺にどうにか受け入れてもらった」
「そこがバクトリアですか?」
「そうだ、バクトリアだ。ある年、ペルシャ人の国バクトリーシュはアレクサンドロス大王に攻められてギリシャ人の国バクトリアになった。わしら兄弟は、そのときから数えて六代あとに生まれた」
「オクソス川の近くのギリシャ人が支配する国、バクトリアか……」
「その国にバクトラという大きな町がある。この間話した町だ。その周囲には乾いた沙漠のような土地が広がっていた。
 しかし、東に山が迫り、南には高い雪山が見えていて、すぐ近くには大きな川がある。だから水は出る。そこで、わしらのやり方で井戸を掘り、作物が育つようにと工夫した。沙漠を畑に変えたのだ。
 わしの一族はそうしたことが得意だ。ナオト、ちょうどお前のようにもの作りを楽しむ」
「もの作りですか……」

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