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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[040]オクソス川に辿り着いたヨーゼフの一族

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第6節 メソポタミアから来た一族
 
[040] ■2話 オクソス川に辿り着いたヨーゼフの一族
 もともと奴隷だったわしらの先祖がオクソス川近くまで辿り着いたとき、わしらの一族は何も持たず、貧しかった。しかしわしらには、もの作りの他にも特別な才覚があった。言葉と交易レェトゥだ」
「レェトゥ?」
「そうだ、交易だ。交易には旅と言葉がつきものだ。わしらと同じ言葉を話す同族は、バクトリアから東西南北、どの方角に行っても必ずいた。だから、いざ交易となったら、我らに探し出せない物はない。どうしても見つからなかったら、それはそもそも、この地上にはないのかもしれない」
「どういうことですか?」
「もし見つからなかったら、それは我々が生きているこの世界には存在しないということだ。たとえば、お前が探しているという土の器があるだろう。どれほどの大きさかは知らぬが、わしは見たことがない。だから、この世にはないかもしれん」
「だけど、吾れは確かに見たことがあります」
「そうか……。ただ、ふと、そう思っただけのことだ」
「……?」

「わしら兄弟は、しかし、オクソス川流域の狭い世界に居つくことを嫌った。代々教えられてきた通りに、もっと東に土地があり、そこでは何か素晴らしいことが起きていると信じた。小さいときからそう教えられて育ったのだ。そこでわしらは、いつか、さらに東を目指して旅に出ようとよく語り合ったものだ」
「しかし、東に何があるというんですか。東の果てにあるのは海だけです」
「ナオト、お前はゴホラ貝は見たことがあるか? バクトリアで喜ばれるきれいな貝だ。輪切りにして磨き、腕輪を作る」
 ヨーゼフはごそごそと箱の中をかき混ぜ、何か取り出した。
「ほら、これがその欠片かけらだ。きれいだろう」
「……」
「それをペルシャやモンゴルの商人に売る。わしも若い頃に匈奴の娘たちのもとに運んで喜ばれたことがある」
「モンゴルですか。モンゴルという土地の名を聞くのはこれが二度目です」
 ヨーゼフは、それに直接は答えずに言った。
「その貝は、いつかはペルシャの女たちの腕を飾ることになる。インドから手に入らなくなって、はるばるアマ国からペルシャへと渡っていくようになったのだ」
「ペルシャとは、そんなに近いのですか?」
「いいや、遠い。はるかに遠い」
「その遠いところまで、こんなものが旅するのですか?」
「そうだ。しかし、途中で持ち主が変わり、また、別のものに取って代って、最後はきんになるということもある。だが、持ち主が変わることはあっても、その貝は、いつかはペルシャまで行き着く」
「どういうことですか?」
「それが商い、交易というものだ。その地の取引相手が欲しがると思うものを別の地で探して手に入れる。それが貝でも、ワシの羽根でも、コメでも、黄金きんでも……。できるだけ安く手に入れる。次にそれを運び出す。これもできるだけ安く、難を避けて。
 あとは、取引相手を選ぶ。その者がいま持っていて、その辺りではありふれているので安く、しかし、遠くにいるまた別の取引相手にとっては珍しいというものと交換レェトゥする」
「レェトゥと商いは同じことなのですね?」
「ああ、そうだ。そして、商いは交換だ。こちらが持っているものを渡し、相手が持っているものを受け取る。そういうことだ」

「そうか、商いとは交換なのか……。何個渡して、何個受け取るのですか?」
「……。お前は本当に賢いな、ナオト。そこが一番難しいところなのだ。いつも変わるのでな。一つと一つということもある。それが、一つに二つと変わるときがある」
「えっ……? そんなに大きく変わるのですか?」
「一つに五つのことすらある。わしがまだお前の年頃だったとき、ハミルの町で飢饉ききんがあった。飢饉というのは食い物がなくなるということだ。
 ハミルは地図ではこの辺り、ジュンガルという盆地のすぐ南だ。東から沙漠ゴビを越えて行くと、まるで『ここまで来い』と呼んでいるように、高い山が見えてくる。高い、高い山だ。それを右に見て何日か行ったところがハミルだ。ナオト、お前はきっといつか、ハミルに行く」
「ハミル……」
「盆地というのは、食い物を載せて運ぶ平たいぼんのように、周りを高い山で囲まれた土地のことをいう」
「盆地……」
 ――ボンチ、ボンチ、ボンチ。
「ハミルは森に囲まれた豊かな町だ。ものをやり取りする大きなバザールがある。北に高い山があって、そこに降った雨や雪が地面に浸み込んで地下を流れてきて、泉になって湧き出す。
 泉は土と岩と煉瓦の塀に囲まれた町の真ん中にある。町の外にもある。だから、雪を抱く高い山を控えた盆地の周りでは飢饉は起きない。ごく稀にしかな。水が地下から湧いてくるからだ。
 水があれば草が伸びてヒツジが育つ。作物も育つ。だから、人の数が増え過ぎない限り、食い物に困ることはない。しかしある年、その起きないはずの飢饉が起きた。空を黒く覆うほどにバッタが出て、草でも木でもすべて食い尽くしてしまったからだ。
 ムギやコメのような穀物が取れなくなれば飢饉になる。草でも同じだ。羽を持っていて遠くまで飛ぶその虫が草という草を食い尽くし、放牧してもむ草がなくなって、ヒツジが飢えて死んだ。そうして食い物がなくなった。飢饉だ。

 その飢饉の直後のことだ。翌年に備えて種にするのに取り置いていたムギは、どうにか虫から守り切ったとしても、その後に食ってしまってもうない。畑を耕す者たちが飢え死にせずに生き残るためにはそうするしかなかった。
 だが、次の年の作付けにどうしても種ムギがいる。商人にとってはいい儲けの機会だ。
 そこでわしはハミルの商人と組み、西のイリという土地にいた大叔父を訪ねて一緒にムギを探した。そして見つけた。そのとき、その相手が持っていた、前の年に収穫したムギを受け取るのにそれまでの五倍以上のものを渡した」
「五倍? 一つに一つだったものが一つに五つに……。何を渡したのですか?」
「あのときは、モンゴルのアルタイ山の北でれたきんだった。わしが自分で取引に行って、苦労して持ち帰った金だった」
「……」
「大叔父は『いくらなんでも高すぎる。止めておけ』と言った。それでも、若かったわしらは思い切って取引した。つらかった。ただのムギに何であれほどの量の金を渡したのだと、その晩は眠れなかった。わかるか、ナオト?」
「いいや。わかりません……」
「お前は、日照りを知らないヒダカびとだからな。乳と蜜の流れる土地、ヒダカ。飢えと渇きの苦しさは、いまのお前にはわかるまい」

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