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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[038]北の星

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第5節 バクトリアについて
  
[038] ■4話 北の星
 その夜。ヨーゼフは、食事を済ませてもしばらく休もうとしなかった。ナオトを誘って外に歩み出て、晴れた北の空の一点を指差した。そこには、初夏の風のそよぎの中でひそやかに光る北の星があった。
「あれが、わしの命を何度も救った星だ」
「あれは北の星ではないですか?」
 ヒダカ言葉で応えた。爺さんはきたを知っている。目当て星というとカケルが言っていたが、それはいいかと呑み込んだ。
「ヒダカではそう呼ぶのか。キタを指すという意味か?」
「ええ、そうです。わかるのですか?」
「キタは知っている。わしらはショマール・セターレという。北の星。どちらも同じ意味だな」
「ショマール・セターレか。ショマールが北で、セターレが星ですね?」
「そうだ、もう覚えたのか?」
「ええ。あの星が見えない夜は海には出ないとカケルが言っていました」
「わしらも、沙漠の夜にあれを見失えば死ぬことがある。砂嵐の後や低くて厚い雲がいつもになく長いこと空を覆ったときなどにな。それが理由かは知らぬが、ペルシャ人の間にはあの星を信仰する者もある」
「シンコウ? それはなんですか?」
「信じるということだ。または、拝むということだ」
「死を避けるためですか?」
「んーっ。ナオト、お前はいつも難しいことを訊く」
「そうですか? どこが難しいのだろう……」
「そう簡単には答えられないことを、お前は何気なく訊く。そういう意味だ」
「……?」

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