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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[079]ハンカ湖へ

第4章 カケルの取引相手、匈奴
第1節 カケル、フヨに戻る

[079] ■3話 ハンカ湖へ
 フヨ人の梶取が操る小舟は、入り江の前の湾を北に向かって帆走している。ようやく落ち着いたか、カケルは舟縁ふなべりにもたれてしばらく目をつぶっていた。コメ俵を積んだ小舟が二艘、後ろに続いている。まず向かうのは、一晩世話になる湾の北端の舟寄せだ。
 舟は南寄りのいい風を受けて、早くもフヨの入り江のすぐ北にある別の入り江を過ぎた。小舟を操ってハヤテと何度か訪れた、フヨ人の猟師たちが毛皮や鳥の羽根を持って集まるあの入り江だ。舟首へさきでさざ波を切りながら、舟は滑らかに進んでいる。

 カケルが両腕を上げ、背中を伸ばして起き出した。それに気付いたハヤテが、幾日も掛けて段取りした匈奴との取引について話しはじめた。初めての取引場所と定めたハンカ湖の北にある川と、そこに至るまでの道筋についてだった。
「明日の朝、宿を出てすぐに、ハンカ湖に向かういつもの水路に入る。この風が続けば会所には三日で着くと思う。そこで荷の半数を捌き、手に入れたフヨの鉄と残りのコメ俵とを二艘に減らした小舟に載せて、ハンカ湖の北の岸にある白棱河ハクレンビラの河口の舟寄せまで行く。ハンカ湖は大きい。北に渡るのに丸一日掛かるが、夜明け前に出れば、この時季ならば暗くなる前に荷下ろしができる。舟荷はコメ十六俵とはがね四俵。多くはない。このところ雨は降っていない」
 ハヤテの話の途中、手を挙げてさえぎったカケルが前の方に離れて座っているナオトの方を見た。目と目が合い、少し考えてから、
「ナオト、お前も聞いておいてくれるか」
 と小さく言った。ナオトは近くに寄り、二人を見た。ハヤテが続ける。
「一晩過ごす白棱河ハクレンビラの舟寄せの主は、四日後の朝、会所で乗り組むことになっている舟子の父親だ。舟を預けてもよさそうかどうかはこの目で確かめてある。
 吾ら九人と、合わせて二十俵の荷がその舟寄せに一晩留まることになる。危ういとすれば、まずはこのときだと思う。
 次の朝、ロバ六頭で穆棱河ムレンビラの岸に向かう。すぐ北を流れるもう一本の川だ。荷の受け渡し場所は舟寄せから半日のところに決めてある。途中は、開けた土地なので迷うことも突然襲われることもないと思う。その舟子の話では、荷車を引いて行く道があるのだが、この時季の原は湿っていて泥濘ぬかるので、ロバを使った方がいいと言う。
 曲がりくねって流れる穆棱河ムレンビラを向こう岸に越えたところできんと引き換えに荷を渡す。この川も見に行って、荷をかついで人の足で渡れると確かめてある。急に水嵩みづかさが増えて渡れなくなったら川の手前で渡すと取り決めた」

 一通り話が終わったところで、
「よくできている。これならばうまく行きそうだ」
 と応じて、カケルが問うた。
「どれかがうまく運ばないとなったときどうするか、次の手は考えてあるか?」
「手配したうちのどれかに手違いが起きたら、ハンカ湖にいる匈奴の相手役にその場でコメを渡すということで話は付いている。あたいはもちろん違うが、きんでもフヨの鉄でも選べる。このたびのコメの量ならば、払いはその場でできると言っている。そこから先は匈奴が自ら、人手と日数を掛けて運んでいく」
「それならば何も言うことはない。その匈奴とつないでくれたのはヨーゼフだったかな?」
「ああ、そうだ。ただ、実際に繋いでくれたのはクルトの方だ。フヨ語が使えるのでれはいつもクルトと話す」
「あの、お前が馬の乗り方を教わった元騎兵か?」
「そうだ。鮮卑の騎兵として南にある中国シーナエンという国と戦ったそうだ。左肘ひじを痛めて弓が引けなくなったところをヨーゼフに拾われたと言っている」
「ここでもヨーゼフか。いろいろなところで手を借りているなぁ。そういう吾れも、昔、ヨーゼフに救われたようなものだが……」

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