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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[080]匈奴への荷渡し

第4章 カケルの取引相手、匈奴
第1節 カケル、フヨに戻る

[080] ■4話 匈奴への荷渡し
「荷を受け取った匈奴の部隊は、松花江スンガリウラ沿いにある依蘭イーランというところに向かうそうだ。どうにかこの大きな川の岸まで来れないかと強く求められたのだが、そうなると吾れらは、列を組んでおかを行くことになる。一緒に見に行ってもらったこの舟の梶取は松花江沿いのなので訊くと、少し上り下りのあるところを六百里余り進むことになるので、ロバを一頭増やして身軽にしてやっても五、六日は掛かるという。この辺りの一は大股に踏み出して三百歩ほどだ。
 依蘭イーランへの道沿いにあるさとは昔から息慎ソクシンが多く住むことで知られていて、フヨの二人はどちらも近づきたくない場所だと言った。黙って通してくれるかわからないと言う。だが、匈奴は気にならないらしい。馬を替えずに二日で行くと言った。ならばと、ハンカ湖近くまで来てもらうことになった」
「少し気になったのだが」
 と、カケルが訊いた。
「ロバが六頭など、すぐに見つかるのか?」
「吾れもそう思った。だが、案内してくれた羌族のドルジが言うには、ハンカ湖の北ではロバを多く飼っていて、六頭ほどならばどうとでもなるという。舟子も同じことを言っていた。なんでも、キョウという人々とロバとの付き合いは大昔にまで遡るのだそうだ。ロバについては何でも知っている。六頭はすでにドルジが手配してくれた」
「うん、そうか。ドルジか……」

「この受け渡しならば、荒い息慎とは出会わずに済む。それに、近頃、鮮卑人の賊の動きが見られるようになったと聞くフヨの都の北のハルビンからも離れている。
 ハンカ湖の会所から穆棱河ムレンビラの岸の受け渡し場所までは水陸合わせて二百里余り。決して楽ということはない。
 しかし、吾らが舟で往く土地は湿っていて、馬に乗る匈奴にとっては避けたいところだという。荷車も使えない。『そこの荷送りをになってもらえるならば実に助かる』と、相手役の匈奴が正直に話してくれた。匈奴は、見掛けは怖いが、嘘がないと吾れは感じている」
「匈奴がフヨの入り江まできて、何であれ入用いりようなものを見つけて運び出すというのはどうなのだ? そうすれば手間が省けるだろうに、なぜやらない?」
「フヨの国に、入り江のある海際まで深く入り込むというのは、いまのところは躊躇ためらわれるらしい。フヨ人は、すべてが遊牧の民ではない。住む家を定めている者も多く、王がいて、国の真ん中にみやこを置いている。
 確か、お前はまだ行ったことがないと思うが、フヨの都は王の住まいがある川の側の小さな丘を囲むようにして塀をめぐらせた城だ。門ごとに衛兵がいて、門前では、日々、市が立つ。ヒダカでは見たことがないような賑やかな町だ。
 匈奴がフヨの入り江に来ようとすると、その都のすぐ近くを馬で通ることになる。それははばかられるというのは、まあ、わかる気がする。ただ、ハンの出方によっては、この先どうなるかはわからないと匈奴の使いは言っている」
「なるほど、そういうことか……。よくわかった」

 カケルが見る限り、これまでの会所での取引との違いは、ハンカ湖を舟で北に渡って一晩過ごすことと、穆棱河ムレンビラまで陸路を半日行くことだけだった。
 ――それをどうみるかだな……。
 ハヤテは、「松花江スンガリウラはどう渡る?」と匈奴の相手役に聞いてみたという。大きな川なのでコメは大丈夫か、れはしないかと気になったのだ。
 その川岸の佳木斯ギャムシに匈奴の輜重隊しちょうたいが駅を設けているので、舟を用意して荷を渡し、夏なので、騎兵は馬ごと川を泳いで渡るという。そのあとは荷馬車を使い、ギャムシの北を回り、フヨ人が多く住むチチガルの平原を経てモンゴル高原のダライ湖ノールに出るという。
「その相手役は、『松花江スンガリウラの岸の駅から匈奴の地までは、日が長いこの時期には十日で行く。荷車がうまく回りさえすれば……』と言って笑った。
 決めた日までに受け渡し場所に来てくれたら、黄金きんはフヨの入り江での受け渡しよりも半分だけ多く用意すると約束し、そのあかしだと言ってその場で自分の髪を一房切って渡してよこした。しかも、これを続けてやりたいという」
 ――フヨの入り江からハンカ湖の北まで運ぶあたいが、西の海を渡ってくるコメの値の半分ということか、いまのところは……。
 匈奴との取引が繰り返しできそうかどうかは肝心なところだと、カケルたちは前から話し合っていた。ハヤテはこれも調べてあった。
「ヨーゼフから聞いた話では、匈奴は昔は漢の河北カホクや西の河西カセイというところから北に向けて物資を運ばせていた。絹や武器、それに酒やコメも含まれていたそうだ。もともとは、漢から匈奴へのみつぎ物だったらしい。長い間、匈奴は漢の上に立っていたということになる。
 しかし、匈奴と漢の関係がこじれているこの頃は、これら二つの方面での商いが難しくなった。いまの漢の王が貢ぐのをめたのだ。いまではせきの守りを固くして、物が北へ流れていくのを抑え込んでいるという。
 そのため匈奴は、ここフヨからの運び入れに力を入れるようになったのだそうだ。いろいろと考え合わせると、このたびうまく運んだならば、続けて取引したいという匈奴の話は信じていいと思う」
 ハヤテは自信あり気だった。

 ヨーゼフから、カケルたちに手を貸してやってくれと頼まれている元騎兵のクルトが、
「受け渡しの後、吾れだったらこうする」
 と、ハヤテに詳しく語ったという。
「荷受けしたコメを荷車に積んだ匈奴の輜重隊しちょうたいは、フヨの北に広がる草原を護衛の騎兵と力を合わせて、匈奴の左賢王サケンオウが支配するハルハゴルに向けて一気に突っ走るつもりだろう。舟で川を遡るという手もなくはないが、それは匈奴のやり方ではない。
 ゆるやかに上る三千里の平原を行くのに、途中、さえぎるものは川だけだ。ところどころに馬と車輪を替えるためのエキを置いていて、渡河点にはおそらく衛兵を駐屯させている。他に、沼と湖と岩山があるが、道の取り方によって避けられる。
 日が出ている間、輜重隊は騎兵に先導させて、馬を替えながら驚くべき速さで移動する。途中、南北に連なる大きなヒンガンの山並みがあるが、それほど険しい山のない北側は荷車を引いて越せる。西の麓に出てアルグン川に向かえば、遮るもののない草原が続く。
 そのヒンガン山脈の北と東の麓には鮮卑がいて邪魔をすることもなくはない。だが、吾れは鮮卑の騎馬隊にいたのでよく知っているが、匈奴の百騎隊に手を出すことはまずない。匈奴と争っても利がないのを鮮卑の隊長はよく知っているからな」
 と、クルトの話をそのまま伝えた後で、ハヤテが続けた。
「吾れらとの取引を終えたあとは、匈奴は手慣れたやり方で荷を運ぶということだろう。すでに馬を何頭も置いた駅をフヨの各所に設けているのは確かだ。繰り返し取引する準備はできていると見ていいと思う」
 カケルはしばらく黙り、取引に要する日数を数えて、続けてやることの有利不利を考えていた。

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