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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[078]北への船出

第4章 カケルの取引相手、匈奴
第1節 カケル、フヨに戻る

[078] ■2話 北への船出
 昇る朝日を背に、息急いきせき切ってナオトが坂を駆け上る。ヨーゼフ爺さんに、一言ひとこと、礼が言いたかった。ドルジにも会えればと思ったが、今朝、浜にはいなかった。
 そんなナオトの姿を、ヨーゼフは戸口に立ってじっと見ていた。
 ――いよいよ行くか……。

 いくつか抱え持つ中に、ヒツジの薄革に描いて丸めた二枚の地図があった。そのうちの一枚は、ここで過ごした最初の晩に描いたものだった。それに、匈奴の大まかな版図はんと、モンゴル高原からみたイリ地方、ソグディアナとバクトリアの境を示す線を加え、アッシリアの位置を表す▲の印の左に、ローマを表す六つ目の丸が半分だけ描き足してある。
 もう一枚の薄革には、ヨーゼフの息子のウリエルが住むという匈奴の東の端と周辺が、近くにある山と川、湖と大きな岩などの目印とともに描いてある。
 いまでは、フヨの入り江に留まらないかという説得をすっかり諦めたヨーゼフが、その地図をナオトに渡しながら言った。
「ナオト、お前はモンゴルで或る者に出会う」
 ――モンゴル高原に行くつもりだとは、まだ、誰にも話した覚えがない……。
「モンゴルで会う人とは誰のことですか?」
「このあいだ、お前に話したわしの息子のウリエルだ。きっと会うことになる」
 広げた二枚目の地図に目を落としてじっと見ているナオトにさとすように言った。
「いいか、ナオト。おそらくお前は、フヨの大きな川のそばにあるハルビンという町の近くまで行く。フヨ人の住む町だ。しかし、その町の北を流れる川を渡って町に入ってはいかん。鮮卑センピかと思われて捕まる。避けて、川の北側をハルビンから見て西に向かうのだ。真西だ。十日行くと山に差し掛かる。ヒンガンの山並みだ。高い山ではないがなだらかに広がっていて越すのに五日は掛かる。これを北西に向けて越えるのだ。この山越えには気を付けなさい」
「何かあるのですか?」
「山の麓にオオカミが巣を作っている。鳴き声が聞こえたら避けて、木の上で朝を待つのだ。仲間を呼び集めているかもしれない。声が頼りなげでも騙されてはならない」
 ――ドルジが言っていたオオカミの巣穴だ……。
「他にも、お前がまだ見たことのない恐ろしいけものがいる。群れを率いるオオカミは大きいが、それよりもずっと大きい」
「……?」
「山を下りたら二日間、草の原の中に浮いているように見える大きな湖まで進め。おかしな言い方だと思うだろうが、実際にそう見えるのだ。だから、別の湖と間違うことはない。そこはもう匈奴だ。
 その湖の南の端にケルレンという名の大きな川が注いでいる。今年は水が少ないそうだ。その川床を六日間、流れに逆らって西に進むと北側の岸に大きな岩が見えてくる。その近くの山のに丸太を横に並べた家がある。それがウリエルの家だ。見落とすことはない。歩くとなると遠いが、お前はきっとそこまで行き着く。
 ハルビンからの道のりは一月ひとつきに少し欠けるほどだ。大きな湖が見えるところまでは半月はんつきと少し。ヒンガンの山に入るまではよそ見をするな。鮮卑に見つかる。人の住むところを避けて行くのだ。山を越えるときには、できれば渓川たにがわに沿って行け。
 お前はきっと、ウリエルと出会う。そこまで行ったら、あとはウリエルに任せればいい。お前が望むように、匈奴の部族に引き合わせてくれる」
「わかりました。もしモンゴル高原に向かうとなったら、ウリエルを探してみます」
「会ったときに、これを渡してくれるか」
 ソグドの文字をしたためて巻いた別の革切れを託した。それとは別に、鹿シカ革でできた着古しの袖のない上着と幅広の革のひもをナオトに押し付けてきた。内側の背のところに文字のようなものが見える。
 ――何と書いてあるのだろう……?

「お前の麻衣あさぎぬひとつでは心許こころもとない。匈奴の地の夜は夏でも冷える。ダーリオが置いていったものだが、大きさはお前にちょうどいいと思う。こんなものでは一年はとても過ごせないが、ないよりはましだろう。
 それと、これはウリエルの妻への土産みやげだ。だが、お前の旅の途中、腹が減ってどうしても力を付けなければというときには、指でひとすくいずつめろ。この南の玻璃ハリの窯近くで作っている蜂蜜はちみつだ。力が付く」
 そう言ってヨーゼフは、ナオトの肩を力を込めてつかんだ。
 うん、と頷いたナオトは、戸口に置いてあった背負子を引き寄せ、
「ヨーゼフ、いろいろと気を遣ってくれてありがとう……。いつまでもお元気で」
 と、ヨーゼフの目をまっすぐに見て言った。一息ついた後に口にした最後のヒダカ言葉は、確かに、ソグドの老商人の心に届いた。

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