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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[125]冬ごもり

第5章 モンゴル高原
第9節 季節は巡る
 
[125] ■6話 冬ごもり
 一面、うっすらと雪で覆われている。枯れた草原は薄褐色に白をまぶしたような色になって空と混じる。その褐色がかったところを選んで、ヒツジの群れが草をみながら移動していく。
 モンゴル高原の冬は寒い。馬は強いが、ヒツジは寒さでやられる。凍った地面に触れて手足を痛めるのは人もけものも同じだ。
 この草原に深い積雪はまずないが、ちょっと気を抜くと、ヒツジの足先は霜と雪に焼けてだめになる。畜獣にとってそれは死ぬということだ。
 冬のはじめにバフティヤールが、
「部族のヒツジの群れが半分にまで減った年がある」
 と、焚火の側でみなに語ったのをナオトは脇で聞いていた。そのときは雪がくるぶしの上まで積もって、何日も消えなかったそうだ。そのために草が隠れて見えなくなり、多くのヒツジを失った。

 厳しい冬を生き抜くために欠かせない牧畜の仕事はいろいろとあって、休むがない。小さく囲った柵に叩き布を掛けて並べ、内にヒツジをぎっしりと入れて互いの熱で守ることがある。
 爪先つまさきの弱ったヒツジは、霜焼しもやけにならないようにとゲルに移して世話をする。汚れた足から泥を拭き取り、温めてやって、傷の手当てをする。両足を皮の切れ端でくるんでやることもある。
 そうした手当てにより、この冬はとても越せないだろうと思っていたヒツジに生気の戻ることがある。匈奴の子等はそれを自分のことのように喜ぶ。
 三月はヒツジやラクダの出産の時期だ。生まれたヒツジの子が一月ひとつきほどして飛び跳ね出すと、それに合わせて匈奴の子は走り回って喜びを体じゅうで表現し、ヒツジの数が増えたと大人は大人の喜びを目のはしに見せる。

 ナオトは、長い冬の日々をゲルとその周囲で送る間に、エレグゼンからさまざまな話を聞いた。
 豊かな草原を縦横に使って遊牧生活を送る匈奴にとって、牧地をしっかりと選びさえすれば、部族全体が滅ぶかというような深刻な食糧の不足は稀だ。確かに、寒くて雪の多い年はあるが、それによる被害の多くは部族を率いる者の経験と知恵によって避けることができる。
 数十年に一回というような旱魃でもない限り、あるいは、そういうものがあると聞いただけで実際に見たことはないが、草も木もすべて食い尽くすという虫の害にでも遭わない限り、草原がすべて枯れてヒツジが飢えて死に絶えるということはまずない。
 草の原さえあればしょくはどうにかなる。畜獣が草を食み、乳を出して匈奴を養ってくれる。
 エレグゼンの話を聞きながらナオトは、フヨの海辺から見える龍の岩山のてっぺんで、「牧民の暮らしは厳しい」と話してくれた羌族キョウゾクの友ドルジを思い出していた。

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