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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[050]フヨの山道を行く

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第9節 柳の里の窯元
 
[050] ■3話 フヨの山道を行く
 柳の里から裏の山に分け入って、入り江に戻ろうとしている。
 それとわかる獣道を辿って深い森の中を進んだナオトは、手頃な横枝のある木を見つけて登り、四方をうかがって、目印になる大きな木を東に探した。アン老人の言う高い峰が二つ、南の彼方に左右並んで見えている。
 人の手が入っていない森なのだろう。人が踏んだ跡はなかった。上るにつれて自分の鼓動が速く大きく聞こえるようになった。
 少し下った先に小川が見える。濡れた小川の石が、深い緑を貫いて届く強い光にすぐ乾いてしまう。そういう季節だった。水が岩を打って飛び散る飛沫しぶきが気持ちよく、ナオトは何度か大きく息を吸った。
 ――まるでヒダカの野山に遊ぶようだ。
 すぐにまた上りはじめ、降った雨を南北に振り分ける尾根に達したところで、西の山に半分沈む夕日が枝葉越しに見えた。
 アン老人が大きな獣がいると言っていたのを思い出して、ナオトは歩みを止めた。岩が棚のようになっている場所を見つけてよじ登り、積もった枯れ葉を寄せてうずくまった。星明かりの中、はるか下の方に先ほどの川の流れが白く細く見えている。
 翌日、低い雲が垂れこめて雨が降りそうな中を尾根筋を選んで進んだ。ちらりと見えたひときわ高い山のいただきを指して森の中を急ぐ。
 日が落ち掛けて森が闇に閉ざされたとき、ナオトは、何かの唸り声が聞こえたような気がして、ぎょっとして立ち止まった。息を詰めて、耳を澄ます。
 ――確かに聞こえた。しかし、何もいない……。
 そのときナオトは、思わず、踏んできた獣道の方に向かって「うおーっ」と声を上げた。それは、どこから来るのかわからない痛みゆえにおのれの奥底から涌き上がった叫びだった。生身の吾れがここにいるという、誰に向けたらいいかわからない訴えだった。
 だがナオトは、両手で口を押えてどうにか二度目の叫びを呑み込んだ。そうしなければ、深い森に一人いる恐怖心に負けてしまうと自覚したからだ。ナオトはこのとき、ひとりでいることの真の意味を知った。

 さらに一晩を森の中で過ごした。木に登り、太い枝に横たわって仮り寝した。
 ――この森は深い。善知鳥うとうの西の山の夜とはまるで違う。 
 空はすっかり晴れた。立つところを選べば月は見えるだろう。しかし、昼でも暗い森の中をそのような場所まで移っていくのは難しい。星明りは木々にさえぎられ、それを夜の闇が包んでいた。深い森の二重の闇の中で、そうとわかる月の光がはるか先にぼんやりと見えている。
 翌朝早くに、あのいただきに立った。周囲にそれよりも高い山はない。開けた場所に移って見下ろすと、日が昇ってきた方角に海が見えた。白い波打ち際に縁どられた島が点々と続いている。この山はやはり、カケルが山当てにしている峰だった。
 ――吾れが立っているこの山から海が見える。ならば、海の上からもここが見えるだろう。
 当たり前のことを考えていると己をわらった。そのとき、どういうわけか、ハルが隣りに立って一緒に笑っているように錯覚した。
 ――ハルがここにいたら、海がきれいだと喜ぶだろうな……。
 下りはじめる前に南の彼方を眺めやると、はるかに遠いあの二つの峰は夏だというのに白い雪で覆われていた。
 ――いま頃だと、岩木山のてっぺんに雪はない……。そうか、あの二つの峰は岩木山よりもずっと高いのだ。
 得心したナオトは、入り江に向かって山を下りはじめた。

 もう遠くはないと思ったフヨの入り江は、ずいぶん遠かった。五日前に走って通ったあの道になかなか出ない。
 ――もし迷ったときには、南に下りればもと来た道に出る……。
 南へ、南へと口の中で繰り返しながら、日暮れ前になって見知った道まで下りて来たとき、ふと、ハルの父親の後について、まだ子供だったハルと並んで初めて十三湖とさのうみに向かったときのことを思い出した。
 重い荷物を背負って、ようやく十三湖を見下ろす坂の上に着いたとき、ハルが、「歩けばいつかは着くんだぁ、一歩ずつでも歩けば……」
 と言った。ハルにとっては、つらくて終わりの見えない道のりだったのだろう。ナオトは、あのとき、「当たり前のことを」と思ったのをはっきりと覚えている。
 ――その吾れが、いま同じことを考えている。道に迷わず一歩一歩進めばいつかは着く……。

 へびはいないかと周りの石を棒でつついて返し、道端の岩陰で一晩過ごしたナオトは、翌早朝、フヨの入り江に戻って来た。いつもは聞こえないウミネコのアーオ、アーオという声がうるさいほどだった。
 その鳴き声に誘われて浜近くまで行ってみた。まだ早いのに、浜人は忙しく立ち働いている。潮の香りも人の声も、なぜかしみじみと懐かしかった。
 蔵に続く坂道を上る。
 ヨーゼフは、「アヤーブッ」と声を上げてナオトが無事に戻ったことを喜び、「荷物を置いて休め」と勧めた。
 結局、カケルがヒダカから戻るまでここで世話になることになった。
 柳の里に出掛けるまで、ナオトは食堂の隅で寝起きしていた。ヨーゼフはその奥にある部屋をすでに片付けていて、今夜からはここで寝るようにと案内してくれた。息子が来たときのためにと取ってあった部屋だという。
 食堂に戻ると、いつもの鉄鍋を取り出して、ヤギの乳を煮た汁といまでは食べ慣れたヌーンとをふるまってくれた。うまかった。何切れ目かのヌーンに手を伸ばしたとき、脇から、
「柳の里のアンは元気に歩き回っていたか?」
 と、もう何年も会っていないらしいヨーゼフが消息を訊いた。

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