『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[051]小刀を研ぐ
第2章 フヨの入り江のソグド商人
第9節 柳の里の窯元
[051] ■4話 小刀を研ぐ
次の日の朝。
朝食の前に、瓶に入れた水とヤギの乳を運んで来た年配の男に引き合わせてくれた。ヨーゼフがここに移って以来、ずっとそれを続けているというフヨ人だった。伸ばした白髪を後ろで結い、浜の人々と同じ白い上下を身に付けて、足にはナオトと同じような浅沓を履いている。
「いい朝ですね」
ナオトは笑ってフヨの言葉で挨拶し、自分の名を二回繰り返した。相手が両手を胸の前で合わせ、頭を下げて「イキョ」と応えたのだが、隣りからヨーゼフがフヨの言葉で何とかと強い調子で言うと頭を垂れたまま下がり、戸口を出た。
昼過ぎになって、ナオトは浜にハヤテを訪ねた。
「おおっ、ナオト。戻ったか!」
九日ぶりにナオトの元気な姿を見て、ハヤテは嬉しそうだった。
同行を許してもらい、浜で働くフヨ人との会話に聞き入った。柳の里の窯元のところに出掛けて、フヨへの興味が掻き立てられたのだ。
どうも、もうすぐはじまる匈奴との荷のやり取りに使う舟について話し合っているらしい。ハンカ湖の会所で籾米を半分渡して、匈奴が欲しがるという変わった作りのフヨの鉄に換える。カケルとハヤテは、その鉄とコメの残り半分とを湖のさらに北まで運ぶ。その方法と道順を話し合っていた。
訊くと、取引の場所はいくつか選べる。そこまで行くのに川と湖と陸と幾通りもあり、土地によっては鮮卑などの賊に襲われることがあるので、掛かる日数と荷送りにともなう危うさとを比べながら決めるのだという。
匈奴からは、匈奴で作った別の鉄か金のどちらかを受け取る。もし金ならば、フヨの会所に持ち帰ってそこで鉄と換える。そのとき、ヒツジの毛を叩いて作る幅広の布や塩を入れておくための織布の袋も手に入れるという。
――塩袋だ。
どちらも舟荷を包み、覆うために使うとハヤテが教えてくれた。会所での鉄と鉄との交換は珍しくないという話もしてくれた。
――鉄と交換に変わった作りの別の鉄を手に入れる……。ヨーゼフが言っていた鋼に違いない。
ハヤテと別れたナオトは、まだ日が残っているうちにと海辺からの坂道を急いだ。
「ナオト、お前が無事に戻ったと聞いてクルトがヒツジの肉を持ってきてくれた。今日は久しぶりに肉を炙る」
ずいぶんと待ったのだろう。ナオトの姿を見るなりヨーゼフは水場に立ち、小刀をいじり出した。
「何をするところですか?」
傍らに行って問うと、笑いながら答えた。
「ヒツジの肉には脂がある。脂で小刀は切れなくなる。だから切る前に、まず研ぐ」
「トグとはどういうことですか?」
「まあ、見ていろ」
いつもの少し短めの小刀を濡らした薄緑色の石に当てた。裏表を何度か擦り、刃を爪や手のひらに当てるなどしていたが、これでいいとばかりにナオトに渡してよこした。
「その肉を切ってみろ」
小刀を受け取って、切る。
――よく切れる。
「……」
「そうだな。研ぐ前を知らなければ、比べようがないか。どれ、お前の小刀も少し研いでやろう」
フヨに来てから腰に下げるようになった小刀をナオトが手渡すと、
「やはりフヨの鋼だな。フヨにも鮮卑にも、刃物に使ういい鋼がある。一度、クルトの話を聞いてみるといい」
――クルトとはまだゆっくり話したことがない。鋼についてよく知っているのだろうか? それに、鮮卑についても尋ねてみよう……。
これまでヨーゼフが用意してくれたものには、ヒダカでは口にしたことのないものが多かった。この炙ったヒツジの肉もそうだった。
――ちょっと、口に合わない。
きつい臭いと脂に、はじめのうちはそう思ったが、慣れたいまでは無性に食いたくなるときがある。今日のように、忙しく動き回ったときには格別だった。
食事の後、いつもと同じようにヨーゼフの一人語りがはじまった。
ここにきてようやく、ナオトは、ヨーゼフのソグド語による話が己の行く末を左右しかねない大事なものだと気付いた。あの柳の里の窯元のところでもそうだった。ソグド語を知らなかったらどんなひどい目に遭っていたか知れない。
ナオトは、以前にもまして、聞き漏らすまい、できるだけ多くの言葉を覚えようと熱心に耳を傾けた。
とくに、何度も出てくるソグドの言葉には気を付けて、できるだけその場で覚えるようにした。少し待ってもらい、口の中で十回繰り返す。そのうち、ヨーゼフがあきれたような表情を見せるようになったが、気にならなかった。
――アン老人の話では、漢でもフヨでもあの器のような形は見たことがないという。どうしても探すつもりならば、ペルシャかインドまで行くしかない。
ヨーゼフの話を聞き、また、ハヤテがフヨ人と話すのを側で見ていて、
――この先、ヒダカ言葉で通すわけにはいかない、ソグドの言葉をしっかり覚えなければ……、
と、ナオトは心に刻んだ。
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