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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[179]鋼作りに打ち込む

第7章 鉄剣作りに挑む
第5節 メナヒム、再びトゥバへ

[179] ■4話 鋼作りに打ち込む
 トゥバに向けて発つ朝、メナヒムはバトゥとともに山のの鉄窯に立ち寄った。
 鉄囲炉裏にナオトがいて、炉の前に座って鋼を打っていた。エレグゼンは見えないが、煉瓦の壁の向こうでフイゴを踏んでいるらしい。二つの石の間で木炭が炎を上げて燃え盛っている。
 一息ついたところを見計らって声を掛けた。
「ナオト!」
 すすで汚れた顔を向けて小さく笑う。壁の向こうでエレグゼンが立ち上がり、片手を上げた。メナヒムは、「二人とも、よろしく頼む」と言って去った。
 メナヒムとバトゥはそのまま西に向かった。途中、輜重隊しちょうたいの隊長が率いる二十騎と落ち合うために左賢王の営地に寄ると、あいだを置かずに行く遠路を気遣ってか、あまり笑うところを見せたことのない左賢王がゲルの外まで出てきて、
「守備隊長、頼むぞ」
 と、微笑ほほえみながら声を掛けた。その声が、メナヒムの耳に残った。
 このたびは前とは別の道筋を選んだ。北のバイガル湖には向かわず、ハンガイ山脈の北麓をテス川沿いに真っすぐ西に行き、タンヌオラ山脈を越えて、トゥバには南から入る。往復一月ひとつきほどの旅だった。

 山の端で寝泊まりするナオトのもとに、エレグゼンがときどき食料を届ける。
 ナオトはすでに、二つの川の計三か所で採った砂鉄を焼いた。そのうちで、鋼の棒にしようと試みた塊は二つのみで、大きな塊が一つ、焼き終えたままになっている。それに、どちらの塊からも、試してみたのは左右のへりだけで真ん中の部分は手つかずで残っている。
 そこでナオトは、さまざまな箇所を取って熱し、鋼にならないものかと試みた。しかしどの欠片かけらも、長い棒にまで延ばすことはできなかった。
 最後に砂鉄を焼いてからずいぶん経っている。焼いた後に崩して煉瓦を取り替えたり、また組み直したりしているうちに、ナオトの鉄窯は丁零テレイのものを真似て四角に作ったはじめの窯とはずいぶん形が違ってきていた。いまの窯は、前よりも深く、幅広い。
 仮りに、鉄作りの工人たくみ鍛冶かじがトゥバから来てくれるなら、ナオトの役目は、大量の砂鉄を集め、あるいは鋼の塊をそのニンシャの工人に渡すまでということになる。
 そのときには鉄窯の作りを正してもらい、そのうえで、これまでやってきたようにいろいろな川岸で集めた砂鉄を使い、焼き方を変えてみればいい。ナオトはそう考えて窯とその周りに少しずつ手を加えた。

 木炭のことも気掛かりだった。
 初めに砂鉄を焼いたときのことを想い返しておおよそ計ってみたところ、北の疎林の小さな鉄窯で初めて砂鉄を焼いたとき、竹筒三十本分の砂鉄から、黒い塊は竹筒の外見そとみの大きさにして四、五本分ほどしかできなかった。しかも、あの塊のすべてが鋼のもとだったわけではない。
 あんなにわずかな量だったのに、三日三晩燃やし続けた木炭はいい太さのマツ一本分では足りないほどだった。
 ――もし、ニンシャ人たちがやって来て砂鉄を大量に焼きはじめたら、マツの木はどれほど使うのだろう。おそらく、十本、二十本では済まない……。剣にする鋼はここで確かに焼けるとなったとき、剣一本を仕上げるのに木炭はどれだけるのだ……。
 まるで見当がつかず、ナオトは少し怖くなった。
 ――もし、「剣を百本頼む」などと言われたらどうする。
 そこでナオトは、山にマツを植えてみることにした。山の端の鉄窯に近いところに、まだまだマツは多い。しかし、このまま伐り続ければいずれはなくなる。それは、そう遠い先のことではない。
 ナオトは、エレグゼンが冬の牧地に戻っている間に山に登り、伐り残している大木の近くまで行って膝ほどに伸びた下生えのマツを根こそぎ掘った。これを沢近くの陽当たりのいいところに、他のマツの切り株から少し離し、風を避けるようにして植え直した。ときは秋。初雪までそれほど間がない。
 ――うまく育つかどうかはわからない。それでもやってみて、だめだったらまた春にやり直せばいい……。
 秋に山に入ればキノコが目に入る。薄紅うすあかいヤマボウシやアケビも見つけた。そういえば、初めてこの山に登ったとき、白い花が盛りだった。
 んでは持ち帰るということを続けるうちに、作業のためにと仮りに使っている山の端のゲルの中は山の香りで一杯になった。
 ――マツを伐って、キノコを採って、吾れはいつまでも同じことをやっている。
 そう考えながらナオトは、一人、笑った。

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