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今日も我が家は「Queen」ボヘミアン・ラプソディ2


友人達と談笑しながら私達は高崎駅に着いた。

さて会館はどこかな?と見渡すとある一角に女の子が集まっている所があった。

まだ会場になっていないようだった。

今だったら推しのウチワを持ってたりとなるのかもしれないが、それぞれにポスターで作ったものやクリヤファイルの様な推しの写真を持っているので直ぐにわかったのだった。

でも、どうやって使うのだろう?と疑問だった。

しかし、私はフイルムコンサートというものを知らないし、ロックのライブコンサートさえ行った経験は無かったのだ。

それに、Queenのファンになって聴いたボヘミアン・ラプソディはかなりライブでの演奏は不可能な曲であった為、きっといくらフイルムコンサートであっても無いだろうと思っていた。

会場され、溢れていた女の子たちがそれぞれ席に着くと、びっしりと席が埋め尽くされていく、確か、指定席では無かったと思われる。

ただ、なぜか同じQueenが好きということもあり和気藹々の雰囲気が漂っていた。

やがて時間が来てブザーかなり、息を呑むように一瞬、静かになりスクリーンが開いた時、周りの女の子はいきなり立ち上がり、悲鳴の様な歓声をあげている。

「ヘッ?何事❓」私は遅れを取ってしまっていた。

どちらかというと腰を抜かしてしまった感じだ。

映像には日本航空JAL機が着陸するところから始まったのだった。

Queenの何曲かのテーマ曲が流れて、画面に現れる一人一人に送られる声援が揺れていた。

そう、M子ちゃんが何故、推しの名前を決めていたのか、ここで理解することができたのだった。

それぞれの推しの名前を持って来たポスターなどを持つて叫んでいるのだ。

前の女の子が「フレディ!フレディ!
きゃあ〜!」と叫んでいる。

M子ちゃんも負けじと「ロジャ!ロジャ!ロジャー❗️」と叫んでいる。

私も恐る恐る「フレディ!」と一声!

なんか?いけるかもと思った。

でも冷静に見てみたら、なんだか変だろうなぁと思いながら恥ずかしい気持ちだったが、声を出していたら少し気持ち良くなってきたのだった。

そして画面は暗くなって、あの4人の顔から始まる「ボヘミアン・ラプソディ」の映像が始まっていた。

「🎵どうせ風は吹くのだから・・・」

と静かにボヘミアン・ラプソディは終了した。

皆んなで高崎市を後にすると何故か気怠くて喉が痛かった。

あの日からしばらくして自然に高校生活にもどり、私は美術部に加入して帰る時間も合わなくなって彼女達とは会えなくなっていった。

部活動を通して友人も出来て、相変わらず勉強はまったく分からないでいた。

私にとって、フイルムコンサートは後にも先にもQueenのコンサートだけで、いつか本物のコンサートに行きたいなと考えていた。

でも、フレディのいるQueenのコンサートにいくことは叶わなかったのです。

あれからボヘミアン・ラプソディのあのPVは有名になり、ハッチポッチステーションのグッチ・ユウゾウさんがパロってましたが時々見る機会などあると、少し気恥ずかしい様な気持ちになるのでした。

その後、私はアルバムを買い続けるのですがフラッシュゴードンあたりは映画も観たのだけど、それ以降は自然にフェイドアウトしていった様に思うのです。

しかし、意表をつく楽曲や4人だからこそ変化に富んださまざまな作曲と作詞そしてコーラスも4人で作り上げる編曲は今までも素晴らしくQueenのファンで良かったと思えるのです。

やはりQueenがここまで日本の女の子に人気があったのはフレディはもちろん4人それぞれが歌が上手かったからではないでしょうか。

まずは曲が良いこと

それに頭が良くエリートだったことと服装がジェントルマンだったこと

そしてこれほど、バンド全員が歌を作詞作曲してそれぞれに担っているのは他に無いと思うのです。

独特のリレーはQueen独自のものと思われて、あの頃のロックバンドの中でオシャレだったことセンスの良いバンドだったのです。

結局、フレディは45歳で1991年11月24日にエイズによる肺炎で亡くなるのだが、日本での女の子の間での見解では「やっぱり」だったと思う。

ショックで無かった訳じゃないのです。

もっと元気でいてほしかった、でも、多分、日本の女の子は分かっていたと思う。

まだまだ偏見は多いけど、恥じて悔いる病気では無いと、仕方ないと私は受け止めた。

ただ、ただ、あの才能が失われた事に残念な気持ちだった。

そう、とても残念だった。

私はフレディがデザインしたイギリスエンブレムが好きで、よくそのデザインを真似た。

真ん中に蟹座のブライアン、両脇にジョンとロジャーの獅子座、下の部分に女性の天使が配置されているフレディの乙女座と鳥

このロゴデザインは大好きなのでした。

色々な意味で彼らがいたから私は幸せなのでした。

今でも・・・

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