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「今日も我が家は」(ノスタルジック・エンパイア)


高校生活も2年目の秋を迎える頃、交互に開催される運動会か文化祭は今年の秋は文化祭になっていました。

美術部では男子部と共同で生徒による展示会を企画して準備をしていたのです。

それは革新的な鍋ちゃんと私で試みた企画だったのです。

かつて男子との共同制作などした事が無かったのでとても刺激になったのでした。

もちろん、鍋ちゃんも、数人の部員も作品を出してくれ、様になったのです。

私は別枠で何処で私がバンドを組んでいると知ったのか?知らない他のクラスの子からガールズバンドのギターを頼まれていて何回も断ったのだが「立っているだけでいいから。」と言う訳で演奏を引き受けてしまっていた。

他校の子達とバンドを組んだばかりで私はベース担当なのでした。

本当に練習も出来ないまま本番を迎えてしまったのです。


彼はキャバレーのバンドマンでギターを弾いているので仕事は夕方から準備するのでした。

彼からギターのレクチャーは受けたが、どうにも弾ける気がしないのである。

彼とはその年の夏休み前に楽器店で出会い彼のライブを観に行ったりして付き合い始めたばかりなのでした。

文化祭は様々な人が来るので誰であろうと目立つ事は無いのでした。

そして本番、多目的な円形ホールの舞台カーテンの後ろグランドピアノの下に彼がいて、ギターのチューニングとセッティングをしてくれていた。

ある意味、文化祭でのメインイベントなのでした。

バンドの紹介がされて舞台には出たのでしたが「やっぱり無理!弾けない!」と彼にギターを預けて私は履けてしまったのです。

私はギターを持つ彼の隣りへ身を潜め隠れていたのです。

すると間奏のアドリブの時、会場がどよめいたのです。

そしてエンディング、私は顔を覆った。

何故なら、ありえない演奏が繰り広げられて会場が唖然としてしまっているのでした。

演奏が終了してギターを片付けると「凄いじゃない!」とボーカルの娘が言った。

「いや、いや、私じゃないから。」と私。

「へっ?そうなの?」と彼女

私は逃げるようにして彼を引っ張り出し外へ・・・

学校側にバレたら終わる。

そう思ってしばらくの間、気が気では無かったのです。

その後、女子部にギターの上手い奴がいると噂になったぐらいで終了したのでした。

「イヤ、イヤ、あれ、私じゃないから!」

それからの私の高校生活はドキドキ、ハラハラの連続なのでした。

無事に卒業出来るのか?非常に心配していたのです。

ある時、よく彼のライブで彼は弟と宇都宮ではちょっと有名なアマチュアバンドを組み彼の家のそばのライブハウスでよく演奏していたのです。

そこで出会った隣りの商業高校のスケバン?他のバンドメンバーの派手目な2人のボーカル女子に(制服の彼女達と私服の彼女達は別人なのです。)「姉ーさん。」と呼ばれていたので、同じ通学で利用するバスの中、同校の生徒に白い目で見られるのも仕方なくて、決してスカートは長くなく、カバンはペッタンコでもなくてパンパンの妊娠カバンなのでウラバンなのか?と訝しげに見られていたのです。

そして、彼女らの制服はセーラー服でまさにスケバンデカさながら長いスカート、カバンはどうしたらあそこまでペッタンコになれるのか?不思議だった。そして青と黒のマニュキュアをしてバス後ろを牛耳っているのです。

バンド=不良だったのです。

私が部活で遅くなる以外は彼女達とバスで遭遇すること多くて彼女達と一緒で学校が終わると早く帰る理由があったからなのです。

何時もバスの後ろに乗りこみ長い髪をほどき化粧をしていた。

その様が「カッコイイ」と思って、徐々に私達は仲良くなっているのでした。

彼女達は何やらバイトをしている様でした。

相変わらず私は「ねーさん。」と呼ばれているのでした。

そう、彼は彼女達のバンドの兄さん的な存在なのでした。

彼女達の行動はちゃんと意味があって、とてもまともで良い人達なのでした。私の中では決して不良なんかじゃなかったのです。



キャバレーのバンドマンの彼の職場は市内の中心部のオリオン通り中ほどのヒカリ会館ビルの最上皆にあり、当時は1階にパチンコ店、2階にバルーン(昼間はレストラン、夜にはスナックバー)3階にフィリピンパブとディスコ,4階に「コンパ」その上に、5、6階と吹き抜けの大きなスペースの県内有数の「キャバレーエンパイア」があったのです。

よく芸能関係の人の歌謡ショーやマジック、更に金粉ショーまで多彩なのでした。

この頃の親達は水商売なんてとんでもないと私は騙されたJKで、更にバンドマンとなると893さんと繋がり覚醒剤の温床の場だと心配されたのです。

もちろん、親達の心配は理解出来た。

「音楽では食って行けない!」と連呼するのだった。

でも、私はその様な状況に反発出来る確信めいたものがあって彼は信じられると思っていたのです。

だから常識から逸脱していて反体制側にいることにドキドキ、ワクワクしていたのでした。

そしてこの意味の無いと思われた高校生活での美術部の存在は卒業後、多いに役に立ち美術部長をやり遂げたことが高評価されたのだった。

そして、その存在は隠蓑になったのです。

当時、演歌が主流で伊沢八郎、東京ボンタ、水原弘のバックをつけた事があると彼は言った。

中でも水原弘「黒い花びら」が代表曲でその間奏部分で「そこの若いギターの兄ちゃん、もっと立ち上がってギュンギュンに弾いてくれよ!」凄味を増して言われて怖かったと言ったのでした。

ある時、どうしても渡したい物があると彼の仕事前に来て欲しいと言われてドキドキしながら指定された場所に恐る恐る入っていくと裏階段があり、彼に会い用事を済ませて帰る時、薄暗い階段の下の方からカンカンカンとヒールと思われ急いでいる感じの足音がしてそれほど広くは無い踊場の角へ身を寄せたのです。

すると私を見つけてピタッと止まり「おはようございます」としっかりご挨拶されビビってよく見ると歌手の中尾ミエさんなのでした。

フワッと良い残香を残してドレスの裾を持ちまたカンカンと登って行くのでした。

私の中では大スターなわけで、呼吸がストップしたまま、放心状態だったのです。

「ハァ!ビックリしたなぁ〜!」と胸を押さえたのです。

何で?私なんかに・・・と思いましたがこれがこの世界の礼儀だと感じたのです。

彼に聞くと「中尾ミエのビックショー!」だったと聞いたのでした。

「可愛いベイビー」🎵やった?」と聞くと

「もちろん、やったよ。」と彼は言った。

「私、会ったのよ。見たかったなぁ。」と言うと

素っ気なく「今度ね!」と言うのでした。
            つづく

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