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今日も我が家は「私の介護回顧録 2」行政と福祉課、地域包括センター


皆様「おはこんばんちは」
鈴丸 カエル🐸です。

昨夜は冷えこみましたね、またしても新たな感染症が中国からと・・・

マイコプラズマは子供だけの感染症ではありません!
適切な抗生剤を使わないと治らないのでお気を付けて下さいませ。

私、過去に悪化させ敗血症一歩手前まで行きました、そしてその後、咳が止まらず後遺症に苦しみました。

ご注意下さいませ!


ハイ!私は一人っ子、日常に相談相手は居ませんでした。
決して父や母のことを悪く言いたいわけでなく、身近にいる大人が父と母しかいなかったのです。

ヤングケアラーの子達もまずどの大人に相談すれば良いのかわからないとありました。

私の周りには医療関係者が多くいましたので分かるだろうと思われますが、逆に当たり前過ぎて今さら何を誰に聞けば良いのか分からないのでした。

ある朝の5時ぐらいの事でした。

朝早く母からの電話で目をさまし何事か?と出ると、父が変だと言う、更に呂律が回らず立つ事が出来ないと言うのだ。

「それは救急車じゃないの?」と言うと

「血糖値が下がっただけかもしれないから様子を見る」と言った。

「まただ・・・又、始まった。」

今日は久々にお休みの娘とドライブに行く予定で母にも出かけるとだけ伝えておいたのだった。

それに気づいた娘が「いいよ、予定通り出かけよう!」と言った。

娘も理解しているのでした。

父が倒れ母との介護も7、8年が過ぎようとしていた。
もう、私は精神的にも肉体的にも限界でリフレッシュしたかった。
「それなのに、なんで今日なの?どうせ私が何を言っても、しても聞かないくせに・・・」

「いいよ、ほっとこう!」と娘は気を使ってくれた。

母の判断に任せた方がいいと言った。

嫌な予感がしたが出かけるとやはり、主人から連絡があり主人が救急車を呼び父が国立に入院した連絡を受けるのでした。

案の定か・・・と後悔したのです。


結局、後ろめたい気持ちで引き返し,想像通りの罵声を浴びるのだった。

父は再びの脳疾患で脳梗塞を起こしたのだった。

もう、どうでもよかった。

母の罵声を浴びながら淡々とその場の作業を進めるしかなかった。

入院の手続きと最終的に延命はどうするか記入すると母を送って何も食べていないと言う母にお茶漬けを作って、風呂に入りたいというので用意して、それを食べて風呂に入る母を見守り帰って来た。

娘に「大丈夫?」と聞かれて私は爆発したのでした。

ただ、つっぷしてワーワーと泣いた。

もういや!とかバカじゃないの!とか叫んでいたらしいのです。


ところがその晩に母は心筋梗塞を起こしていたのでした。

2010年5月の連休前の事でした。

多分、私も母も限界だったのだと思います。


国立に父がそこから直線距離の獨協医大に母が入院することになったのです。

あの晩にアタック(心筋梗塞)を起こして3日間放置していた為、処置できずに今の今、心臓が止まるかもしれないと救急外来の若い医師が言った。

母は医師に囲まれて嬉しそうにしている

私はドクターヘリがテスト飛行を繰り返すのを眺めながら

「何やってんのよ!バカじゃない⁈」

自分なのか、母なのか?分からない言葉をつぶやきながら途方に暮れるしかなかった。

また同じように入院の手続きと延命をどうするか?必要なしと記入した。

母は看護師時代に急場の延命はほとんど家族の為であり本人は苦しいだけと言っていたので必要無しに○を付けたのです。

母は元気だった、どこか楽しげで担当医師をイケメンだと喜んでいた。

私はそのイケメンに今の今に死ぬかもしれないと繰り返し言われ3つの大きな血管の1つの上の方で詰まり心臓の筋肉が壊死して変な信号を出し不整脈になりやすいと説明を受けた。

「だから何?どうすればいいの私」と心の中で言っていた。

私は家族に特に娘にサポートされていた。

父の所へは我が家の皆様や父の弟が、なるべく私が母の所にいられるようにしてくれていた。

そして国立と獨協医大の半分くらいの所にある実家には母の可愛いがっている猫ちゃんが2匹、人が居ない家にいた。
それを主人が面倒を見てくれていた。

それらの協力無しには動けるはずもなかった。

そして母の所に元スタッフであった元気な看護師の方が見舞いに来てくれてこう言った「大丈夫!婦長さんお父さん(父の事)の事は私が手配するから安心して」と言った。

母は彼女によろしくと言って握手をしていた。

私にも同じ事を言って「何とでもなるから任せて」と言った。

でも、その看護師の方が同僚に「あれは混濁尿だわね」と言った。

母は幾つもの管に繋がれていて胸水を抜く為のステンレスの棒が痛いと言っていた。

私には医療知識がなかったので彼女達が何を言っているのか分からなかったのです。

そしてどうしても痛いのでステンレスを抜いて欲しいと医師に告げたのです。

処置をした医師がヘタクソだったと文句を言っていた。

でも取ってしまえば又胸水がたまり苦しくなるのでは?と素人は考えた。

それから母は心電図の音と意味もなく戦っていた。

「うるさい!」と言うのだ家でもテレビの音がうるさいとよく言っているのでした。

音を消す事は担当の看護師さんに聞いても、見舞いに来た看護師さんに聞いても無理の様だった。

出来るだけ音を小さくしてもらっても、なだめても「うるさい!」と繰り返していた。

なんとエネルギシュな人と呆れるしかなかった。

入院から一月後、母は私の腕の中で息を引きとった享年78歳でした。

母が亡くなると、父の弟が父の面倒を見るから金を出せ!と言って来た。

私は泣く暇もなく母の葬儀を出した。

葬儀会場に母の描いた絵を飾り、主人と友人がギターとピアノで母を送ってくれた私と主人の友人達が集まり協力してくれ多くの医療関係者が参列してくれたのでした。

しかし、その葬儀の最中も叔父はある事無い事を集まる親戚に吹聴していたので怒りと憤りの中、じっと我慢するしかなかったのです。

そして葬儀が終わり父の介護にもどるとまるで叔父と父の取り合いをするような感じに信じられない気持ちでいた。

母がよく叔父を嫌い「気を付けろ!」と言った意味を理解した。

そこに父の彼女らしい女性まで現れた、

それは父が倒れた福島から今まで出てこなくて無くなっていた腕時計が急に出て来たり、母は倒れた時、誰か一緒に居たはずと危ぶんでいたのでした。

「まさか?」と私は聞きのがしたのです。

そして父は退院を迫られていて入所先が決まっていなかった。
もう、我が家で引き取る事は出来ないと考えていたのでした。
これ以上に家族には負担をかけてはいけないと思っていた。

しかも、あの「後の事は全て任せて!」と言っていた看護師さんは手のひら返しの様に「婦長さんが死んじゃったから出来ないから自分で探して」と言われた。

もう、泣きっ面に蜂を味わっているようだった。

それでも父の主治医の先生が父のデイサービスでお世話になっていた施設に話しをつけてくれてやっと退院先が決まったのです。

もう色々な意味で泣く事も出来ず人間不信になって全て事が信じられなくなっているのでした。

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