猫は泡沫の夢を喰う【読切部門 本文】

時は江戸時代、長崎。
稽古通詞見習(江戸時代の通訳)の稲田市太郎は、将来を期待されている18歳の青年である。
彼は、阿蘭陀商館に滞在している商館医のフランツの私塾で、西洋の医学を中心に様々な知識を得ていた。
フランツはユーモアと知性に溢れた態度で門人(生徒)に接し、若者たちはその姿に刺激を受けていた。30代前半という若さで日本のどの知識人にも勝る知識と最先端の学問の話をするフランツに、多くの若者たちは魅了された。

教鞭をとるフランツ。多くの生徒が話を聞いている。
市太郎は特に熱心に話を聞いている。
フランツ「西洋では天然痘に罹った牛から菌を取り出しこれを人間に注射することで、軽度の天然痘に罹患させる。この理由がわかる人はいますか?」
大勢の者が熱心に手をあげる。
フランツ「稲田君、答えてください。」
市太郎「はい!免疫を獲得し重症化を防ぐためです。」
フランツ「よろしい。しっかり事前学習ができていますね。手を上げた皆さんも答えがわかっていたのでしょう。大変熱心でいいことです。」
夕方の鐘がなる。
フランツ「本日はここまで。また次週会いましょう。」
スマートにその場を去るフランツ。

門人たちはフランツ先生の振る舞いに湧き立つ。
門人1「やはり、フランツ先生は踏ん反り返った、日本のお偉方とは違うな!全く偉ぶらず、友人のように接してくれる。」
門人2「いかにも!私は宿舎に下宿させてもらっているが、度々様子を見に来て気遣ってくださる。」
門人3「なんと、お優しい。」
フランツについて門人たちは興奮気味に語り合っている。
その輪から抜け出し、市太郎はフランツの部屋に向かう。
市太郎が出ていくと、門人たちはヒソヒソ言い合う。
門人1「稲田は、先生のお気に入りじゃのう」
門人2「武士でもない下級通詞が媚びを売りよって。」

背をスッと伸ばし障子の前で声をかける。
市太郎「先生、よろしいでしょうか。」
フランツ「どうぞ入りなさい。」
市太郎は許可を得ると、中に入る。
市太郎「先生、課題を持って参りました。」
市太郎の差し出した紙を受け取り読み出すフランツ。そこには、流暢なオランダ語が書かれている。
フランツ「これは…さすがですね。日本の宗教について端的にまとまっています。」
市太郎「ありがとうございます。」
フランツ「稲田君のオランダ語はレベルが高い。元々文章がうまいのでしょうね。」
市太郎「と、とんでもございません!まだまだ若輩者です。」
フランツは赤くなり恐縮する市太郎の肩を叩き、楽しそうに笑う。
フランツ「それでは、次に日本の薬種に関する論文をまとめてくれますか?」
市太郎「はい!先生!」

私塾からの帰りを急ぐ市太郎
市太郎(すっかり遅くなってしまったな。)
近道をしようと、丘を抜ける道を歩く事にする。
道の途中に灯りが見える。
市太郎(この辺りに家はないはずだが・・・)
店の女「もし」
声をかけられた方を向くと、そこにはこの世のものとは思えない美しい女が立っている。
店の女「あなたのお探しのものがあると、主人から呼んでくるように言われております。薬種についてお調べするのでしょう?本がございます。」
市太郎「なぜそれを?」
市太郎は腕を女に掴まれて引っ張られていく。
女の言動に驚きつつ、フランツに言われた課題を思い出し、好奇心に負けて店に入る。

店の中には身長がやたらと大きなこれまた浮世離れした美女が土間から一段高い畳に正座で待ち構えていた。
華のあるこの女性に思わず見惚れてしまう市太郎。
店主「よくおいでくださいました、通辞様。」
店主は妖艶に微笑み、市太郎を手招きする。
そして、畳の上に多くの薬種の本、実際の薬草を広げて見せる。
市太郎は見たことのない書物や薬草に驚く。
市太郎「この薬草は長崎では見たことがありません。」
店主「これは蝦夷や琉球、富士の山などから集めたものです。ご入用でしょう?」
店の女「書物も各藩で書かれた希少書を集めました。」
市太郎(本草学の本はかなり学んだと思っていたが・・・見たことないものばかり)
市太郎は本をめくり続ける。驚きと同時にフランツへ報告する論文の完成度が上がることを嬉しく思っている。
市太郎「これらの本はいくらだ!?さぞ高価なものだろうが。今は手持ちが・・・」
店主「いいですよお、ツケておきますんで」
店主「それより…通辞様は海の向こうにご関心が強いようで。」
店主は今まで見たことがないような海外の品々を市太郎に見せる。
市太郎「こ、これは・・・」
店の女「抜荷の品ではございませんよ。」
店主「貴方様は昔からこの島国を抜け出して世界を見てみたいとお考えだったかと思います。」
市太郎「な、何を」
鎖国政策下で海外渡航は厳罰に処される行為である。
市太郎はこれを否定しようとするが、店主は笑う。
店主「あのような、洋物のたぬき男に騙されて、お可哀想な方」
店主「私貴方のような素直で可哀想な方が大好物でして。」
店主は舌なめずりをする。
市太郎はそこで、この店主の影に七股の猫の尻尾ついていることに気付く。
市太郎(物の怪の類であったか!)
市太郎は指摘しては、食われるのではと思い黙っている。
店主「貴方が望めば海の向こうに連れて行きましょうか。異国の男に教えられるより自分で見てみることが1番ですよ。」
店の女「百聞は一見にしかずにございます。」
市太郎「い、いや遠慮しよう・・・」
市太郎は店から飛び出して、夜道を逃げ帰る。
店主「また会いましょう。」
店主は優雅に手を振って見送る。

市太郎は飛び起きる。
昨夜は変な夢を見たなと思い枕元を見ると、昨夜の店で見た植物が一つ置かれていた。
「ヒッ」と声が出る市太郎。

数日後フランツのオランダ商館の私室で、論文を渡す市太郎。
市太郎「・・・という不思議な経験をいたしまして。」
フランツ「そんなおとぎ話のような…随分疲れていたんですね。」
フランツは笑っている。
フランツ「良い論文でした。私も勉強になります。」
フランツに褒められて嬉しい市太郎。
フランツ「…稲田君。さらに一つお願いがあるのですが。」
市太郎「…?なんでしょうか。」
フランツ「以前、江戸参府の折に幕府天文方・書物奉行の高橋様によくしていただきました。お手紙を私にいただくことになっているのですが、オランダ人と幕府要職の方がやりとりしているのは外聞が悪い。すみませんが、手紙の宛先を稲田くんにさせてもらい取り次いでいただけますか?」
市太郎は不思議に思いながらもフランツのを疑うことなく了承する。

後日、市太郎は送付された手紙を持ち、オランダ商館へ向かう。
前方から編笠を被った女が歩いてくる。
すれ違いざまに女が声をかける。
店主「それは厄災です。お捨てなさい。」
声で市太郎は編笠の女が女店主であったと気づく。
市太郎は周囲を見回すが女は去っていた。
市太郎(厄災・・・?)

フランツの部屋に行くと入れ替わりで商人が出ていく。
フランツの私室の床には数種類の動物の剥製が並べられている。
大柄なヤマネコの剥製もいる。
フランツは剥製をうっとり眺めていたが、市太郎に声をかけられハッとする。
市太郎「すごい種類ですね。」
フランツ「これで日本についてさらに理解が深まるよ。」
市太郎「先生は日本の草花や動物を採集してどうするんですか。」
フランツ「…実は私の任期はそろそろ終わろうとしている。」
市太郎「ええ!」
フランツ「私は日本で収集した資料を持ち帰り、閉ざされた国日本を世界に伝えたいんだ。」
フランツ「稲田くんのような優秀な日本人がいることもね。」
市太郎「先生、いずれまた来てください。西洋の知識は日本人を多く救います。」
フランツは穏やかな目をする。
市太郎は「そういえば」と胸元を漁り手紙を渡す。
フランツは一瞬ニヤリと笑い、大いに喜び感謝を述べた。
剥製の中の山猫の目が動いたように見えた。

ある日、大きな騒ぎが起きる。
フランツが地図など海外持ち出しが禁止されている品を数多く所持していたという。
市太郎のところにも役人がやってくる。
市太郎は、幕府天文方・書物奉行の高橋とフランツの地図の受け渡しに一部加担したこと、フランツに日本の情報を流していたことを咎められた。
厳しい取り調べ、牢獄に閉じ込められる。
市太郎はやつれた顔をしている。

外から猫の鳴き声がする。
どこからともなく、店主が現れた。
その影は、七つ尾のある猫であった。
店主「だから忠告しましたのに。」
市太郎は絶望し疲れた顔を上げる。
店主「たぬき男からさっさと縁を切れば、こうはなりませんでしたのよ?」
市太郎「なぜ…なぜ貴女は私に忠告を…」
店主はホホホと笑う。
店主「忠告ではありませんよ。私が言えば言う程、あなたが頑なになることはわかっていましたもの。」
市太郎「物の怪に私は化かされていたと言うことか…?」
店主「人は不思議です。自分に何かを与えてくれる人間を素直に信じてしまう。野生では美味い話ほど命を落とすと、相場が決まっていると言うのに」
店主「私は理解し難い人間という生き物を見るのが大層面白い。」
店主「すでに聞いているんでしょう?あの医者が国命令で日本のことを調べていたって白状したと言うことを。」
市太郎「…先生は今私たちの罪が軽くなるように嘆願してくれている。日本の人質になってもいいと行ってくださり…!」
店主「時すでに遅しでは?」」
市太郎「…」
店主「人は欲深い生き物。彼はいい人間かもしれませんが名誉欲には勝てなかった。」
店主「異国人は重大な事件を起こした場合、国外追放になります。大したことではありません、きっと彼はこれまでの経験を世界に語り名誉を得るでしょうね。」

市太郎は無言を通す。
店主「でも、あなたはどうなるのでしょう?」
店主はとても楽しそうだ。
店主「私は随分と楽しませていただいたので、最後にあなたにご褒美をあげます。」
店主は市太郎に短刀を渡す。
店主「もし、あの医者を殺すと言うなら牢屋から解き放ってあげます。そして、あなたを海の向こうに連れて行ってもいい。」
店主「あの男以上の名誉も手にし、歴史に名を残す。そんな手助けをいたしましょう。」
店主が手を振ると場所が移動する。そこはフランツが軟禁されている屋敷の中だった。
フランツは眠っている。
店主に渡された短刀を市太郎は震える手で握る。
…しかし、手はそっと下ろされる。
店主「随分と甘いのね。人生を台無しにされたと言うのに。」
市太郎「例え、裏切られようとも、先生から教えられた知識に間違いはございません。」
店主「つまらない答えだわ」
市太郎「私は恐ろしくなったのです、あれだけ海の外に憧れたというのに・・・夢見た世界はどこにもないと、察してしまった。」
市太郎「知識さえあれば、認められる世界があるのだと信じていました。身分ではなく人として評価される世界です。しかし、そのためには人を騙し、出し抜く力もまた必要だったようです。私の思い描いていたものとは違う。」
店主「あなたはどうするの?」
市太郎「運命を受け入れる、ただそれだけです。」
店主は「ククク」と笑う。
店主「もう少し面白いお話が見れるかと思ったけど、まあ楽しめたわ。ご馳走様。」

30年後
すでに時代は明治維新を迎えている。
老人となったフランツが老婆に声をかける。
フランツ「この辺りに稲田市太郎という人の墓があると聞いたのですが。」
農婦「ああ、シーボルト事件で長崎からこの土地にやって来た人ですね。」
フランツ「…」
農婦「幕府時代のことで、当時はきちんと葬ることも出来ませんでしたが、新しい世になって彼にお世話になった人たちが建立したんです。」
フランツ「彼はこの土地でどのように過ごしていたんですか。」
農婦「屋敷から出ることは許されなかったと言います。しかし、彼は医学の知識が豊富で藩の医者や知識人が多く教え乞うていましたよ。彼の知識で多くの民草が救われました。」
フランツ「そうだったのですか…」
農婦「日が暮れます。私はこれで。」
夕日が農婦を照らす。その影は七つの尾を持つ猫のように見えた。

一人、墓に向かい花を手向けるフランツ。小さな墓石である。
フランツ「申し訳なかった。」
呟くがそれに返す答えはない。

道を歩くフランツに男たちが駆け寄る。
門人1「フランツ先生ここにいらっしゃいましたか!冷えますので人力車へ」
門人2「先生、是非お話を聞かせてください!」
フランツ「…ああ。」
二人に反応するフランツの背中はどこか寂しげであった。

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